街中でもよく見かけます 大きい石 、石臼
お地蔵さん
蔵
寺・・1700
神社・・・200
石碑・道標・・・1500
伝説・・・
陵墓・・平安時代から明治までの天皇陵のほとんど
平安遺蹟
秀吉の話・・・京の町を造り変えた
処刑の場の話・・・三条河原、六条河原
町の名前・・・・歴史的な町名が残っている
などなど
蔵を見たことをきっかけに考えてみました
街中でもよく見かけます 大きい石 、石臼
お地蔵さん
蔵
寺・・1700
神社・・・200
石碑・道標・・・1500
伝説・・・
陵墓・・平安時代から明治までの天皇陵のほとんど
平安遺蹟
秀吉の話・・・京の町を造り変えた
処刑の場の話・・・三条河原、六条河原
町の名前・・・・歴史的な町名が残っている
などなど
蔵を見たことをきっかけに考えてみました
木戸孝允(1833~77)は,桂小五郎といった長州藩士時代,
花街三本木の芸妓幾松と恋仲となり,
時に新選組に追われながら苦難の時代を過ごした。
両人は鴨川西岸に住み,蛤御門の変のあとには新選組に追われて,
幾松の機転で助かったこともあると伝える。
幾松は維新後木戸公夫人松子となり,
明治10(1877)年夫を亡くした松子は
剃髪して翠香院と号し京都に住まいし,明治19(1886)年44歳で没した
幾松は天保14年(1843)福井県に生まれた。本名は計
9歳で舞妓になり14歳で幾松(2代目)を名乗る
桂小五郎と知り合ったのは20歳前後らしい
関連記事 ➡ 木戸孝允の旧邸終焉の地
周防国出身の大村益次郎(村田蔵六,1825~69)は,
緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ後,江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任した。
のち長州藩に仕え軍制改革を指導した。
農民や町人の兵式訓練の必要を説き,
第2次長州征伐・戊辰戦争において卓越した指揮を行った。
新政府では兵部大輔として近代兵制の樹立に尽力したが,
明治2(1869)年9月4日関西の軍事施設視察時に反対派浪士に襲われ,
11月5日大阪で没した。
この石標は,大村が襲撃された宿所の跡を示すものである。
なお碑文には「十番路次」と記すが,
当時の史料や大村の伝記には「二番路次」と記している。
大正拾五年四月 陸軍少将山口鹿太郎建之
関連記事 ➡ 遭難碑
高瀬川沿いにあります 道の対岸で 碑には 近づけません
右側は 佐久間象山
1864年2月 幕命を受けて長野から京に入っていた
同年7月11日 午後5時ごろ 木屋町三条にさしかかったところで
2人の刺客に襲われ足を切られた。
馬に乗っていた象山は宿舎を通り越し御池へ
ここで待ち伏せしていた7・8人に捕らえられ
前身に13ヶ所の刀傷を受け死亡した
象山52歳
その日の夕方、三条大橋には゛会津・彦根の2藩にくみした国賊につき、
天誅を加わえた・・・゛と書かれていたという
これより8日後に蛤御門の変が起こり
「京のどんどん焼け」の大火事になった
焼失家屋 民家 27000余り
土蔵 1207
寺社 253
と言われています
墓は 大法院・妙心寺
左側は 大村益次郎
1869年9月4日夜
数名の刺客に襲われる
重傷を負い11月5日大阪の病院で亡くなった
享年 46歳
遭難碑の前を 高瀬川が流れています
関連記事 ➡ 人物016 佐久間象山