アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

京の町で多いもの

2015年06月28日 23時18分35秒 | まち歩き

街中でもよく見かけます 大きい石 、石臼 

お地蔵さん  

  

寺・・1700  

神社・・・200

石碑・道標・・・1500

伝説・・・ 

陵墓・・平安時代から明治までの天皇陵のほとんど

平安遺蹟

秀吉の話・・・京の町を造り変えた

処刑の場の話・・・三条河原、六条河原

町の名前・・・・歴史的な町名が残っている

などなど

 

蔵を見たことをきっかけに考えてみました

 


桂小五郎・幾松 寓居跡

2015年06月28日 07時27分42秒 | 史跡・旧跡

木戸孝允(1833~77)は,桂小五郎といった長州藩士時代,

花街三本木の芸妓幾松と恋仲となり,

時に新選組に追われながら苦難の時代を過ごした。

両人は鴨川西岸に住み,蛤御門の変のあとには新選組に追われて,

幾松の機転で助かったこともあると伝える。

幾松は維新後木戸公夫人松子となり,

明治10(1877)年夫を亡くした松子は

剃髪して翠香院と号し京都に住まいし,明治19(1886)年44歳で没した

幾松は天保14年(1843)福井県に生まれた。本名は計

9歳で舞妓になり14歳で幾松(2代目)を名乗る

桂小五郎と知り合ったのは20歳前後らしい

 

 

 

 

 

 関連記事 ➡ 木戸孝允の旧邸終焉の地

「桂小五郎の写真」の画像検索結果  


大村益次郎が襲撃された宿舎跡

2015年06月28日 05時52分50秒 | 史跡・旧跡

周防国出身の大村益次郎(村田蔵六,1825~69)は,

緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ後,江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任した。

のち長州藩に仕え軍制改革を指導した。

農民や町人の兵式訓練の必要を説き,

第2次長州征伐・戊辰戦争において卓越した指揮を行った。

新政府では兵部大輔として近代兵制の樹立に尽力したが,

明治2(1869)年9月4日関西の軍事施設視察時に反対派浪士に襲われ,

11月5日大阪で没した。

この石標は,大村が襲撃された宿所の跡を示すものである。

なお碑文には「十番路次」と記すが,

当時の史料や大村の伝記には「二番路次」と記している。

   

大正拾五年四月   陸軍少将山口鹿太郎建之

関連記事 ➡ 遭難碑

 


佐久間象山・大村益次郎 遭難の碑

2015年06月28日 01時54分23秒 | 石碑

 

 高瀬川沿いにあります 道の対岸で 碑には 近づけません

 

 

 

 

右側は    佐久間象山

1864年2月 幕命を受けて長野から京に入っていた

同年7月11日 午後5時ごろ 木屋町三条にさしかかったところで

2人の刺客に襲われ足を切られた。

馬に乗っていた象山は宿舎を通り越し御池へ

ここで待ち伏せしていた7・8人に捕らえられ

前身に13ヶ所の刀傷を受け死亡した

象山52歳

その日の夕方、三条大橋には゛会津・彦根の2藩にくみした国賊につき、

天誅を加わえた・・・゛と書かれていたという

 

これより8日後に蛤御門の変が起こり

「京のどんどん焼け」の大火事になった

焼失家屋 民家 27000余り

土蔵   1207

寺社  253

と言われています

 

墓は  大法院・妙心寺 

 

 

左側は  大村益次郎

1869年9月4日夜

数名の刺客に襲われる

重傷を負い11月5日大阪の病院で亡くなった

享年 46歳

 

 

遭難碑の前を 高瀬川が流れています

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関連記事  ➡  人物016 佐久間象山