尾道出身の実業家山口玄洞(1863~1937)は,
大阪で毛布・金巾・モスリンなどの商売を行い巨富を得て,
第三十四銀行重役や貴族院議員となった。
隠居後,公共事業や寺社へ寄進を行い財産を社会に還元した。
大正12(1923)年,仏教普及のために山口仏教会館を建設した。
同会館は,戦後映画館として使われ,
その跡地に昭和57(1982)年京都市歴史資料館が建設された。
尾道出身の実業家山口玄洞(1863~1937)は,
大阪で毛布・金巾・モスリンなどの商売を行い巨富を得て,
第三十四銀行重役や貴族院議員となった。
隠居後,公共事業や寺社へ寄進を行い財産を社会に還元した。
大正12(1923)年,仏教普及のために山口仏教会館を建設した。
同会館は,戦後映画館として使われ,
その跡地に昭和57(1982)年京都市歴史資料館が建設された。
妙顕寺は,元享元年(1321)日像(1269~1342)が開いた
京都における最初の日蓮宗寺院。
豊臣秀吉(1536~98)は,天正11(1583)年
大坂城造営に着手すると共に京都では妙顕寺を首都経営の拠点とした。
それに伴い寺院としての妙顕寺は,北方の寺之内地区に移された。
天正14(1583)年,聚楽第が造営されるとその拠点機能を失った。
この石標は妙顕寺城の跡を示すものである。
なお,この地を古城町と呼ぶのは妙顕寺城に因むものである
応仁の乱の 一方の陣雄
1467年~1477年
京の町は荒れ果てる
守護大名山名宗全(持豊,1404~73.3.19)は,
室町幕府将軍足利義政(1436~90)の後継をめぐり,
義政と日野富子(1440~96)の子義尚(1465~89)を擁立して,
将軍の弟義視(1439~91)を担ぎ,
花の御所に陣を敷く管領細川勝元(1430~73.5.11)らと対立した
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山名、勝元が亡くなり戦火は下火になり、4年後には11年間も続いた大乱は終息した。
堀川通りの土木工事のとき、山名町付近の地下から幅、高さともに1メートル余りの横穴が発見され、
山名邸の抜け道だろうとうわさされたことがあった
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厄除 阿彌陀如来 嘉永5年(1852年) 建立です
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出雲寺は粟田寺、八坂寺、広隆寺と並ぶ古い寺で、平安時代末期には廃寺になった。遺物としては上御霊神社にあった旧観音堂の聖観音立像(鎌倉)と同社境内から出土した瓦しかない。この観音像は明治維新の神仏分離に際し、付近の念仏寺(現出雲寺 ここです)に移された。
西陣の碑 これのもとになった石碑が考古資料館にある
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西陣の由緒
西陣の地名は,応仁の乱の際,西軍方の陣が敷かれたことに由来する。
平安時代にはこの地に織部司がおかれ,
中世にはその流れを汲む大舎人座が機業に携わっていた。
応仁の乱で織工は一時疎開していたが,乱後再び復興した。
近世以降,西陣織の生産地として,
日本を代表する高級織物業の中心地となり現在に至る。
東は堀川通,西は七本松通,北は今宮神社御旅所,
南は一条通または中立売通で囲む一帯を西陣と呼ぶ。
昭和3年11月 ちょうど 昭和の御大典の年月が一致しています
村雲御所跡
村雲御所は,瑞竜院日秀(1533~1625)が,
豊臣秀吉(1536~98)に追放され自害した豊臣秀次(1568~95)
を追善するため建立した寺院。
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この附近を村雲と称し,宮家や摂関家からの入寺があったため村雲御所と呼ぶ。
日蓮宗唯一の尼門跡寺院。
昭和38(1963)年近江八幡市に移転した。
この石標は瑞竜寺跡を示すものである。