鴨川から水を支流のようにして取り入れています
向こうの橋のすぐ下流にある 堰堤の左側が取水口
ここらでは、鴨川よりも上を川が流れています 高瀬川 源流です
今度は 上流を見ていたのと反対に下流を見ています
鴨川本流の右側を流れていますが 途中から 90度 右折します
途中で せき止められて 流れが 右になっているのが わかるでしょうか
木屋町通りまで 流れが来ると
大阪からの物資を運ぶ 水運を造りました
鴨川から水を支流のようにして取り入れています
向こうの橋のすぐ下流にある 堰堤の左側が取水口
ここらでは、鴨川よりも上を川が流れています 高瀬川 源流です
今度は 上流を見ていたのと反対に下流を見ています
鴨川本流の右側を流れていますが 途中から 90度 右折します
途中で せき止められて 流れが 右になっているのが わかるでしょうか
木屋町通りまで 流れが来ると
大阪からの物資を運ぶ 水運を造りました
第37番 札所です
41番の天井画と比べて鮮明に残っているので 1枚1枚の映像は 割愛します
奉納額 京都市内各地からの住所が書かれています・上段
京都川勝寺 支部 と記されています
京都市右京区西京極にはかつて川勝寺とよばれる寺があり、
近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。
この地域は明治の初めまで川勝寺村(せんじょうじむら)と呼ばれ、
住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた
関連記事 ➡ 41番札所
維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,
鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。
明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を
京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,
木戸は同月26日に死去。
この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,
昭和18(1943)年京都市に寄贈され,
敷地南端部分に孝允が没した木造二階建て家屋が残る。
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