社務所前の広場から 市街地を見ましたが 今日は かすんでいます
中央の 四角い森が 京都御苑です
平安京左京三条二坊九町から十町にかけてあった
藤原基経(836~891)邸を堀河院(堀川殿)といい,
関白藤原兼通(925~977)によって改修され,
円融天皇(959~91)の時初めての里内裏となった。
以後白河(1053~1129)・堀河(1079~1107)・鳥羽(1103~56)天皇の里内裏となった。とりわけ堀河天皇は当院を愛用し,ここで成長,受禅,崩御した。
平安京における名邸の一つとして知られたが,
保安年間(1120~23)の焼失後廃絶。
森寛斎(1814~94)は,長州出身の画家。
森徹山(1775~1841)に師事し円山派の画法を学ぶ一方で
討幕運動にも参加した。
維新後は京都画壇の研究団体如雲社の経営に努め,
画壇の復興に寄与し,この地で没した。
この石標はその邸宅跡を示すもので,
寛斎に師事した山元春挙等の寄附で建立されたものである
教育の大変革をめざした人達
幕末の「寄合」
幕末動乱の真最中、下京の画家、森寛斎宅へ集まった
幸野楳嶺・西谷良圃・熊谷直行・遠藤茂平らは寺子屋教育の近代化を議論していた。
彼等は新しい時代が到来することを予測し、
長州藩士、広沢真臣(さねおみ)を助言者として迎え、
異国の教育を福沢諭吉の「西洋事情」によって学んだ。
西谷良圃は奉行所に「口上書」を三度提出したが、幕府はこれを顧みず維新を迎えた。
富小路五条の本覚寺境内にある良圃の墓碑には、
「今や君、徳未だ顧れずして既に亡し。抑も天か命か。
嗚呼哀しいかな。友人 森寛斎撰す」とある。
標柱は 明治 ●2年10月建立
岐阜県で創建されたが 織田信長が 京都のこの地に移転させた
蛤御門の変で焼亡
御利益は 病気治癒
京都十二薬師霊場 第九番
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本堂の扁額
本尊 ポスターで
本堂
本堂 裏から
慶応元年の建立です これは写真です
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川柳
指一本 スマホとオレを つかう妻 /高橋
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