調べましたが よくわかりません
意味も分からない 謎です
木戸孝允(1833~77)は,桂小五郎といった長州藩士時代,
花街三本木の芸妓幾松と恋仲となり,
時に新選組に追われながら苦難の時代を過ごした。
両人は鴨川西岸に住み,蛤御門の変のあとには新選組に追われて,
幾松の機転で助かったこともあると伝える。
幾松は維新後木戸公夫人松子となり,
明治10(1877)年夫を亡くした松子は
剃髪して翠香院と号し京都に住まいし,明治19(1886)年44歳で没した
幾松は天保14年(1843)福井県に生まれた。本名は計
9歳で舞妓になり14歳で幾松(2代目)を名乗る
桂小五郎と知り合ったのは20歳前後らしい
関連記事 ➡ 木戸孝允の旧邸終焉の地
周防国出身の大村益次郎(村田蔵六,1825~69)は,
緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ後,江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任した。
のち長州藩に仕え軍制改革を指導した。
農民や町人の兵式訓練の必要を説き,
第2次長州征伐・戊辰戦争において卓越した指揮を行った。
新政府では兵部大輔として近代兵制の樹立に尽力したが,
明治2(1869)年9月4日関西の軍事施設視察時に反対派浪士に襲われ,
11月5日大阪で没した。
この石標は,大村が襲撃された宿所の跡を示すものである。
なお碑文には「十番路次」と記すが,
当時の史料や大村の伝記には「二番路次」と記している。
大正拾五年四月 陸軍少将山口鹿太郎建之
関連記事 ➡ 遭難碑
高瀬川沿いにあります 道の対岸で 碑には 近づけません
右側は 佐久間象山
1864年2月 幕命を受けて長野から京に入っていた
同年7月11日 午後5時ごろ 木屋町三条にさしかかったところで
2人の刺客に襲われ足を切られた。
馬に乗っていた象山は宿舎を通り越し御池へ
ここで待ち伏せしていた7・8人に捕らえられ
前身に13ヶ所の刀傷を受け死亡した
象山52歳
その日の夕方、三条大橋には゛会津・彦根の2藩にくみした国賊につき、
天誅を加わえた・・・゛と書かれていたという
これより8日後に蛤御門の変が起こり
「京のどんどん焼け」の大火事になった
焼失家屋 民家 27000余り
土蔵 1207
寺社 253
と言われています
墓は 大法院・妙心寺
左側は 大村益次郎
1869年9月4日夜
数名の刺客に襲われる
重傷を負い11月5日大阪の病院で亡くなった
享年 46歳
遭難碑の前を 高瀬川が流れています
関連記事 ➡ 人物016 佐久間象山
現在の 建物は 銅駝美術工芸高校
舎密局跡
「舎密」とはオランダ語シェミーの訳語で化学を意味する。この地は、東京遷都により沈滞した京都の産業を振興する目的で、京都における舎密局(理化学研究所)がつくられた場所で、明治3年(1870)、明石博高の建議により府知事・槙村正直が仮設立、同6年に完成した。受講生を広く募集し、ドイツ人ワグネルら外国人学者を招き、京都の伝統産業である陶磁器、織物、染色の改良実験をはじめ、わが国初の石鹸の製造、鉄砲水(ラムネ)等飲料の製造、七宝、ガラスの製造等、工業化学の研究と普及に努めた。また、本格的な理化学の講義は島津製作所創業者・島津源蔵ら多くの人材を育て、京都の近代産業の発達に大きな役割を果たした。明治14年(1881)、槙村知事の転任によって閉鎖、建物も同28年(1895)に消失し、その後に銅駝小学校(現在は銅駝美術工芸高校)が移転してきた。 京都市
当時の写真
ドイツ人 ワグネル
平成27年6月17日 撮影
関連記事 ➡ 府立図書館のワグネル碑
➡ 島津源蔵の言葉 だるま寺
山脇東洋(1705~62)は,山脇玄修(1654~1727)に医学を学び,
その養子となった。
六角大宮にあった六角牢獄で宝暦4(1754)年,男の刑死人の解剖を行い,
実地について人体構造を観察した。日本最初の解剖だった
著書にこの時の解剖記録『臓志』がある。
解剖された刑死人の供養碑が,誓願寺の墓地に建てられた。
この石標はその供養碑の所在を示すものである。
なお,現在の供養碑は複製で,原碑は京都大学総合博物館に寄附された
ここは、請願寺墓地の入口
山脇東洋宝永2年(1705年) 丹波・亀山の医師清水東軒の三男として生まれた
学才を買われ、京の医師 山脇玄修の養子となる
当時は死体の損傷を極度に忌避するのは日本人の生まれながらの感情であり、
古来から律令や不文律で禁じられてきた
それまで、カワウソの解剖で教えられてきたが東洋は満足しなかった
京都所司代に解剖許可願いを出し
宝暦4年(1754年) 東洋49歳の時日本最初の人体解剖を行った
場所は六角獄舎
解剖に同席した 小杉玄適は江戸に行き杉田玄白に伝えた
「解体新書」が出るのはそれから17年後になる
著書は「蔵志」 「養寿院医則」 など
宝暦12年(1762年)死去
墓は深草の真宗院、本山の新京極の誓願寺にもある
昭和45年3月 京都市
山脇東洋 まとめ ➡ 人物007 山脇東洋
石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0082 伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地 東山一周トレイル F12
川柳
お迎えは どこから来るのと 孫が聞く /眞鍋
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新島襄と妻八重の私邸 1878年(明治11年)9月竣工
和に洋を取り入れた建築様式 八重は亡くなるまでここに住む
1932年6月 87歳
大河ドラマの時は見物の人が多かったが
今は静かです
新島襄 天保14年(1843年)群馬県安中藩の江戸屋敷に生まれる。
22歳の時幕府の禁を犯してアメリカへ密航、
密航船の船主ハーディーの元10年アメリカで学び
大学を卒業、帰国後学校設立に力を注ぐが15年後に病死
墓は永観堂 若王子山頂 同志社墓地にある
八重の墓も同志社墓地にある
H27.3.28 撮影
関連記事 ⇒ 人物045 新島 八重
法雲寺の境内の東に西向きに建っています 菊野大明神の本尊は石です
菊野大明神はもともと 東洞院三条の角の曇華院の前にありました
曇華院が嵯峨野に移転することになったので、
明治5年にここ法雲寺に来ることになりましたが、
それから 山伏が現れ
境内の東に西向きに建てよこの寺にきくのという石がある
悪縁を切って良縁になるとお告げを言って立ち去りました
寺は山伏のお告げにしたがいました
明治から昭和の戦前までにぎわいました
文政5年(1822年)の石碑です
小さい堂内は
入ってみると 暗かった
梁の上には絵馬が隙間なく奉納されていました
縁切り達成出来たのでしょう
御礼詣りの奉納絵馬
女性の絵が描かれた絵馬です
鴨川から水を支流のようにして取り入れています
向こうの橋のすぐ下流にある 堰堤の左側が取水口
ここらでは、鴨川よりも上を川が流れています 高瀬川 源流です
今度は 上流を見ていたのと反対に下流を見ています
鴨川本流の右側を流れていますが 途中から 90度 右折します
途中で せき止められて 流れが 右になっているのが わかるでしょうか
木屋町通りまで 流れが来ると
大阪からの物資を運ぶ 水運を造りました
第37番 札所です
41番の天井画と比べて鮮明に残っているので 1枚1枚の映像は 割愛します
奉納額 京都市内各地からの住所が書かれています・上段
京都川勝寺 支部 と記されています
京都市右京区西京極にはかつて川勝寺とよばれる寺があり、
近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。
この地域は明治の初めまで川勝寺村(せんじょうじむら)と呼ばれ、
住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた
関連記事 ➡ 41番札所
維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,
鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。
明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を
京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,
木戸は同月26日に死去。
この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,
昭和18(1943)年京都市に寄贈され,
敷地南端部分に孝允が没した木造二階建て家屋が残る。
関連記事 ➡ 各所にあります 明治天皇 行幸地 など
関連記事 ➡ 小五郎・幾松 寓居跡
41番札所 は六角堂です
本尊は 11面観音です
これが 堂内 天井に描かれている絵です 色落ちが激しいので
創建当初の面影はありません
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月が描かれていたのだろうか
名前が書かれているのですが
関連記事 ➡ 37番札所