一つの品種の花に特別のものを感じる、或いは一生を通じて深い結びつきをもつ、そんな国民はいないのではないか。いうまでもなく、日本人と桜のことである。
桜の樹の下に集い、語り合い飲食を共にするという風習。たぶん生まれた時から花見をしてきたであろうし、毎年のわずかな間の開花を愉しみ、その美しさを愛でてきた私たち。「絆」という言葉はふさわしいか、いささか心許ない。が、しかし、日本人なら誰でも、桜という花の存在との深い関係をもっている。
いやいや花見なぞしたことないという奇特な人がいても、この日本ではどこを歩いても桜を見、桜の樹を避けて歩くことはできまい。否応なしに、その美しさは目に入るのだから致し方ない。年齢の変化によっても、感じ方・見方も変化し、その深まりは異なるから面白い。
春先の蕾が萌え出るころから、春らしさの遠のく花びらが舞い散るまで、桜は日本人の魂をゆさぶる。
さて、平安時代よりこの方、日本人と桜との結びつきだが、桜というものに命を懸けてあの世にまで連れ添うことを本望とし、桜との「心中」を願った人といえば本居宣長しかいない。彼は桜を「桜である少女」と見なし、恋をし翻弄され、老いて死ぬまで恋仲であり続けた。嘘のようだが本当のことだ。
宣長は生前に公と私の二つの墓を造り、「私的な墓」の方にこそ本来の自分が眠るのであり、その傍らに理想の伴侶としての「桜」を植えさせた。敬愛する橋本治によれば、宣長は桜を乙女から妻へと成熟する「理想の女性」だと見立てたそうである。(私は小林秀雄の「本居宣長」を未読である。傍らにあるのだが、読むのがもったいなく、そして何か怖いのだ)
山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め
今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば
上の二首は本居宣長の辞世の歌とされ、たとえば小林秀雄と橋本治では解釈では若干分かれるのであるが、宣長の「もののあはれ」という思想の結実が、桜という花に象徴されて歌に詠み込まれたことは確かであろう。
今、自室のパソコンに向かっていて、窓の向こうにちょうど桜の花が目の前にあるという恩恵にあずかっている。昨日が七分、今日が八分だと目に見えるほどだ。雀はもちろん、ひよどりだろうか大きな鳥も集まってくる。平日は静かだが週末になると、華やいだ声が四六時中響いてくる。若いころには、梶井基次郎の「桜の樹の下には死体が埋まっている」という幻想が気に入っていたが、今はもう失せて、ただただ桜に見惚れている。
▲日曜日に六義園に行った。この時季はライトアップする夜桜が人気だが、朝から人が賑わっていた。
▲同じしだれ桜。日暮里駅近くの本行寺の境内。
▲上野桜木近くの寺の舗道から仰ぎみる。
▲駒込の食堂 ▲六義園で見た種か実?
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いくつかの記事をたいへん興味深く拝見させていただきました。過去の記事もゆっくり読ませていただきたいと思っております。
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