日本人が歴史を川の流れに喩えるのに対して、西洋人は歴史を構築物のようなものと見ているようである。
(古代ギリシャ歴史の泰斗、藤縄謙三の『ギリシャ文化と日本文化』より)
「歴史」というと、たいそうなものになる。だが、私たち日本人は確かに、現在のありようを川の流れとして見る心性、情緒性をもっていると思う。
美空ひばりが歌った『川の流れのように』もそうだが、自分の来し方を目の前を流れゆく川に喩える・・。刹那的に、ときに情緒的に。己の心情を自然の移り変わりに重ねあわせるのは、良くも悪くも日本人の無常観であり、ものの見方であろう。
あの鴨長明の『方丈記』の冒頭、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。澱みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、ひさしくとどまりたるためしなし」。今を流れているのは元の水ではない。浮かんでは消える水の泡もまた、永くそのままではいない。人生もそのようなものではないか・・。大地震の後の、街や住まいが崩壊し、人々が罹災したときの心情を慮って、鎌倉時代の長明が書き記したとされる。
▲まだ、見たことのない四万十川。死ぬ前にはぜひとも・・。
さて、藤縄謙三のいう「西洋人は歴史を構築物のようなものと見ている」とはどういうことなのか。
「もしも、歴史が人間の努力によって作られて来たものだとすれば、それは決して流れのようなものではなく、何かに喩えるとすれば、ピラミッドのごとき構築物だということになるであろう」と続くのだが、西洋人はつまり、人間の営為というものを統合的かつ具体的なイメージとしてとらえる。そう、叡智と創造の美を結集し、努力と時間を積み重ねて創りあげた「構築物」として・・。
それを教会の大伽藍のようなものに譬える、宗教的な心性は現代の西洋人にも変わりなくあるのか・・。たぶん、それは生き続けている。だからこそ、ガウディの、あのサグラダファミリアのような、100年を超えても建築し続けられ、かつ何百年もの長きにわたって修復し続けられる歴史的遺産が多いのだ。
ヨーロッパのこれらは、篤い信仰心もあるが、歴史をこえた「必然性」にだれもが関わっているからではないか。そうした揺るぎない「共感覚」のようなものが人々の中になければ、歴史を構築物として見ることはできない。
▲2年ほど前に行ったサグラダファミリア。現在はもっと進行していて、建築主任は日本人らしい。
ひるがえって、日本人にそうした「共感覚」はないに等しい。前述したように、「川の流れ」つまり移ろいゆく「偶然性」のようなものに心情を重ねる私たち。と、なれば「いまさえよければ、それでいい」という刹那主義に陥るリスクもあるから厄介なのだ、お立合い。
近頃の日本の風潮も、政財界だけでなく日本人全体がそうした風潮に染まっているような気がしてならない。
経団連会長が、原発建設を将来的になくそうと、年頭に提唱したが、昨日には「原発の再稼働はどんどんやったらいい」などと言い出した。たぶん、短期的なスパンの中で産業界の利益を考えているに違いない。もっといえば、視野がせまい狭量的なものの見方に支配されている。
長期的視点に立てば、こんな発想は生まれない。孫、ひ孫の世代までも想定した「必然性」に基づいた思考を重ねれば、件の会長のような曖昧でどっち付かずの発言はできまい。偽善でこんなことを考えるほど、悠長な時代環境ではないと、お偉いさんには思い知ってほしいのだ。
最近、畏敬する内田樹のブログを久しぶりに覗いてみた。以前は、毎日更新していたのに神戸女学院を退官してから、だいぶん間をあけるようになった。ま、それとして。
その内田樹がこんな発言をしていた。
「安倍政権の登場には、ある種の歴史的な必然性があったんだと思います」と。
ちょっと長いがそのまま引用する。
だから僕が政権批判をすると、びっくりする若い人がいるんです。「え? 何、それのどこがいけないんですか?」って。「だって、うちの会社と同じですよ」って。彼らは安倍さんが社長で、自分たち国民はその会社の従業員だと思っている。だから、「従業員が経営方針に口出す会社なんかないでしょ」ときょとんとしている。「経営方針の適否を決定するのは従業員じゃなくて、マーケットでしょ」と言うのです。そういう「従業員マインド」と対米外交における「属国民マインド」とがブレンドされて、いまの日本の有権者たちの気分というものを形づくっている。
さすがの内田先生も、お口あんぐり状態になったご様子。
でもですね、辺野古の海を埋め立てている土砂が、標準価格の約2.5倍のとんでもない価格なこと、それが競合のない1社から供給されている、そんな記事が朝刊に載っていた。それも、サンゴに悪影響をあたえる粗悪品らしい。「サンゴ礁は移転しました」と安倍首相は豪語したらしいが、9つのサンゴ礁の内の一つだけを移転しただけなのに、虚言で誤魔化したにひとしい。
安倍政権による一連の肝いり事業は、すべて我々の血税によって賄われている。嫌われるのはなんともないから、あえて、若い人たちにいいます。
「国」は会社じゃありません。自分たちが選んだ人に任せて、管理・運営をおこなう「私たちの共同体」です。その経費は、すべて私たちの税金、つまり「国」に出資したお金です。だから、文句もいえば、指図もできるんです、基本的に。
内田先生曰く「ある種の歴史的な必然性」とは、西洋の歴史を構造物として見る普遍性などではなく、政権が安泰であるうちに与えられた目標を、国民を無視してでも達成しようとしていることと関係している。
嘘も隠蔽も厭わない。手段を選ばず、強引にねじ込んで、短期間に達成せよという、まるでブラックな「会社」のやり方を採用しているからだと思われる。