小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

『コンビニ人間』を読む

2019年01月16日 | 本と雑誌


読後感はたいへん爽やかだが、ちょっとグロテスクな余韻もある。文庫で160pほどの中編小説を2時間ほどで読み終えた。凝ったレトリック、練られた比喩表現はない。でも、シンプルで過不足のない、とても上手い、ドライブ感のある力強い文章といっていいか。村田沙耶香は新たな日本文学を構築していくかもしれない。それほどの器量と才能をもっている。

▲村田沙耶香さん 芥川賞を取ったときの印象はうすいのだが・・。出身は千葉、玉川大学卒。お嬢さんですけど・・?

 

穏やかで清楚な感じの女性だが、人間を見つめる視点は奥深く、社会の裏側に巣食っている陰湿な暴力や差別にも対峙する力、知性がある。

書き出しがうまい。人物造形もいい。コンビニ店というものが多様な音に満ちている、その描写が実に研ぎ澄まされている。感覚的ですばらしい。読みはじめから、なんの違和感もなく没入できる。

大学生時代からコンビニのバイトを始め、就職せずに同じ店でバイトを続け、いまや30代後半にさしかかる主人公。周囲との軋轢はそうとうあると思われるが、作者は基本的に、そこに力点をおかない。

主人公の幼児のころのエピソードが前半で紹介される。

・私はすこし奇妙がられる子供だった。

・死んだ青い鳥をみて「お父さん、焼き鳥好きだから、今日これを焼いて食べよう」と言った。

・暴れる男の子の頭をスコップで殴った。惨状をみた先生は主人公に説明を求めた。「止めろと言われたから、いちばん早そうな方法で止めました」

・教室でヒステリーをおこした若い女教師に対しては、黙ってもらおうと思ってスカートとパンツを勢いよく下した。その先生は仰天して泣きだして、静かになった。

実に怖くて背筋が凍る。幼稚園の頃から、喜怒哀楽のない少女で、モンスターとして成長するかと思いきや、両親の愛と妹の支えにより、大学まで行く(形だけの交友関係も細々と築いている)。それが小説の主人公「小倉恵子」の大雑把な輪郭。
「普通」の社会に適応できないだろうから就職はしない。その代り、コンビニの仕事は好きなのだ。無機質で機能的な空間の中で、決められた作業、客への対応、それなりに臨機応変に対処する。
一連のコンビニの仕事は難なくこなす。そのすべてが気に入ってい、作業が違和感なく受け入れられる。単にウマがあうだけなのか・・。
 
コンビニで働く人々の個性や話し方を吸収し、マニュアルを忠実に実践できる有能なアルバイターとして、ずーっと評価されてきた。10代後半から30代前半まで、週4・5日無遅刻・無欠勤。ある意味で会社にとって、都合のいい『コンビニ人間』になっているのだ。
 
これが「表」の顔だとすれば、「裏」の顔は、将来への夢もなければ、人生の機微、愉しさを味わう人間関係もない。もはや、人間の情感、「個」のアイデンティティさえ失っている。他者からの信頼さえ必要としない。そう、彼女は人間としての「承認欲求」すら、必要ないように見える。

一見平板な「普通」の生活をおくり、30代半ばまで何事もなく生きてきた小倉恵子。奇妙な処女で風変わりな孤独のアラサー(アラフォー?)女だ。

彼女にとって、コンビニの空間こそ、生きている実感を与えてくれる(見る夢は、レジを打ち、品揃えをしている、ホントの夢!)。(⇒現代の孤独な中高年男にとって、最も愛すべき女性といえないか・・、聞いてみたいぞなもし?)

コンビニという店を、筆者はそう頻繁に利用しないが、一目了解できる。適正な空間に、生活に必要な商品、食品がぎっしりと並べられ、それを3部制の少人数で24時間も営業している。考えてみれば、集客・販売のために、最高度に凝縮された空間であることは、何度か利用すれば素人でも分かる。

ただし、価格が一般的に割高だし、「普通」の主婦、高齢者なら断然、スーパーを優先して利用する。コンビニとは、若い人のために存在する、あるいは金を気にしないで機能的に購買行動する人のための、現代資本主義社会の象徴ともいうべき消費空間・・、といえようか。


小倉恵子はもはや、全身『コンビニ人間』と化したのか。いやいや、利用しようと目論んだダメ男のせいで、居心地のいい場所ではなくなる。ある誤算が生じたのだ。

「普通でない女」が、「普通でない男」と一緒にいると、「普通」の人間たちが、「普通のイメージ・習慣」を暗に要求する、それが誤算の片鱗ともいえる。男女がペアになるならば、「普通のペア」にならなければならない。それがコモンセンス、社会の「普通」だから・・。どんなに人間性に瑕疵がなくとも、「普通」でないものは排除される。

それが「普通」のフォーマットで、イレギュラーなものはそぐわない。周囲に安心感を与えないものは、徐々に忌避され、やがて追い出されていく。「普通生活」のOS(オペレーティング・システム)とは、なんと味気ないものか、だ。

小倉恵子は不本意だろうに、才能や将来性がない中年のダメ男からも「上から目線」で視られ、「処女性」さえも揶揄の対象にされているらしい。あろうことかパラサイトできる格好の対象とさえ見なされる。

しかし作者は、「普通でない男」の無能や依存性向を告発することはない。女のジェンダーとしての優秀性は自明だし、あえて「ダメ男」に「ダメ出し」する必要はない。むしろ女性作家としての志の高さが、ダメ男への優しさを筆者は感じたくらいだ。


「普通」の生活とは、いかようにも「異常」なものとなりえるし、人とのつきあいそのものが知らぬまにハラスメントになる。「忖度」が「差別」として誤解されることもあるし、「没個性」を要請される同調圧力もある。表の「普通」と裏の「普通でない」の基準が分からなくなってくる。表と裏が一体となるかのような人間の関係性が紡がれていく。

もうこれ以上語るまい。ネタバレは避けたい。

『コンビニ人間』であることと、現実との生活において齟齬というか乖離が見え出すころ、小倉恵子が自分を語るところがある。その文章が耳触りがよく、優れた書き手であると舌を巻いた。


 自分が咀嚼する音がやけに大きく聞こえた。さっきまで、コンビニの「音」の中にいたからかもしれない。目を閉じて店を思い浮かべると、コンビニの音が鼓膜の内側に蘇ってきた。

 それは音楽のように、私の中を流れていた。自分の中に刻まれた、コンビニの奏でる、コンビニの作動する音の中を揺蕩(たゆた)いながら、私は明日、また働くために、目の前の餌を身体に詰め込んだ。


 ▲昨年、アメリカの文芸誌『ニューヨーカー』の「The Best Books・2018」に選出されたのも分る気がした。他の作品もたぶん読むだろう、そのときはぜひ論評したい。


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