小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

秋の夜長、筆まかせ

2015年11月04日 | 日記

 

病気だから死ぬのではない。生きているから死ぬのである。死は病気の助けなど借りずに、立派にお前を殺す。
或る人たちにおいては、病気がかえって死を遠ざけた。彼らは死にそうに見えただけ、それだけ長く生きたことになる。(ミッシェル・ド・モンテーニュ)

この二か月というもの、きれめなく死に向き合い、それを考えている気がする。
九月半ばに義父の一周忌があった。その六日後に法事にも列席していた義父の妹のつれあいが亡くなった。
十月に西野氏が逝去した。翌日このブログに書いた追悼文をたくさんの方が読んでくださったようだ。いかように読まれたかは知らないが、あまりの急逝だったからその事実確認のみだけでも役立てていただけたら幸いである。

そして今月の一日に、先述した故人の四十九日があった。私自身10月某日に六十五歳の誕生日を迎え、その喜びというよりいかに死ぬか、生を全うするかに考え方の軸を定めた。
わたしは冒頭に挙げたモンテーニュやマルクス・アウレリウスを繰りかえし読んできたが、生きることはよく死ぬことであり、哲学することは死を考えることであるというこの二人の哲人を畏敬しているからだ。

考えるといっても、この世界は私一人で構成はされていない。ごくせまい関係性のなかで生活しているわけだが、いまそういう人間的な繋がりというより自分の内面性を掘り下げようと思っている。
具体的にはここに書かないが、書くこと、造ること、そして省くことなるだろう。

最近の楽しみは俳句の本を読むこと。散歩にいき自然とふれあうこと。
このブログも来年になれば11年目だ。安全保障に関する「自問自答」も、自分なりの決着というか橋頭堡を築きあげねばならない。
そして、だらだら書かないことだ。「日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ」ことが、このブログのメインテーマだ。

誕生日に十年ぶりぐらいか、葛飾の水元公園にいった。そのときの木の実・どんぐり拾いの成果を紹介したい。

水元公園

                   

 ※(なんたるミス。葛飾の水元公園を舎人公園と表記していた。老人ボケがすすんでいる。なさけない。11月5日に訂正)

 

 

四十九日の法要の後、親類の家に寄せていただいた。庭に、珍しいサフランの花が咲いていた。冬を予感させる、深まる秋の花である。この雌しべについてすこし興奮口調ではしたなく解説したことを少し悔やんでいる。

 

 

 


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