先週の土曜日、Zoomを通してのリモート会議「次世代にどのような社会を贈るのか?」という公開シンポジウムを視聴した。以前、ブログを通じて知己を得ることができた森中定治氏が会長をつとめる日本生物地理学会の主催である。
テーマは一般的な主題を掲げているが、実際の内容は「津久井やまゆり園殺傷事件」の犯人植松聖(さとし)が何故あのような犯行に及んだかを考えるというもの。彼は現在に至っても贖罪もなく、反省すらしていない。むしろ、自分の行為は社会の役に立つことをしたという自説を曲げず、殺傷行為は自己の確信と責任において全うしたと語っている。
多くの識者が彼とコンタクトをとり、直接面会したり手紙でやりとりしたが、彼自身がそのことで自分の考え方を変えたとか、悔悛したような様子はないようだ。ただ、死刑が確定してからは接見が禁止になり、書簡のやりとりもできないので、現在は心境に変化があるかどうか確認できない。(注1)
さて、シンポジウでは森中定治氏を皮切りに、『相模原事件・裁判傍聴記』の著書もある雨宮処凛さん、小田 亮、藤井 聡、斎藤 環、松尾 匡、宮台 真司、森 達也、篠田博之、岡ノ谷 一夫ら錚々たる諸氏が、ひとり約2,30分、各自が作成したパワーポイントのスライドビューで自論を展開された。
▲▼ シンポジウムで使用されたパワーポイントのスライド。誰のかは特定できず、証拠写真的にスマホで撮る。
テーマとしては「利己性と利他性」を切り口にして、それぞれ専門の視点から植松聖の行動を探求しようというもの。というのは、植松が徹頭徹尾、社会に貢献するためとか、日本の財政困難と社会福祉のためにとか、つまりは公共性とか利他性をつねに標榜する人物であった。社会や人の役に立つことが、なぜ重度&知的障害者を殺すことになるのか・・。そんな理路はふつうなら短絡的と見なされる。合理的な帰結として結びつかないし、叡智のかけらも感じられない。
さらに、彼が犯行前から安部元首相や衆議院議長に手紙をおくり、意思疎通の不可能な重度障碍者の安楽死を願い、若しくは殺害することの社会的正統性を主張した。一方では、植松は大麻吸引する脱法行為をしていたり、生活保護者は税金の無駄遣いする社会不適合者として抹殺すべきと主張した。その反面、精神科への強制措置入院後にはちゃっかりと生活保護費の適用を受けるなど、自己矛盾した言動には何らの気づき、反省の弁はなく、そのことを追及されると自閉した。
ともかく、植松は元職場でもある施設「やまゆり園」の重度障碍者を特定して19人を殺害し、他25人にも重篤な傷害を負わせた。彼は自首したが、社会のお荷物を厄介ばらいした救世主を気取り、逮捕後も一貫して自説を主張している。その優生思想、徹底した社会不適合者への排除論は、多くの知識人の耳目を集め、様々な論議を生みだしたことはいうまでもない。
当ブログでも、植松に関する記事を何本も書いてきたし、彼と接見し度重なる往復書簡を交わした最首悟さんについてもふれている。今回、森中氏からシンポジウムのお誘いがあり、植松について多くの識者が独自の見解を披歴される機会にめぐまれた。
しかしながら、森中さんはじめ諸氏らが示した分析、論点はいずれも高度で深い内容であるので、それを個別に言及することは愚生には無理というもの。ここでは、それを受けての感想、私見を書くまでとしたい。
社会の役に立つか、立たないかは、それは他人様の評価に任せるべきだ。己が決めるべきものではないし、社会の役に立たないただそれだけの理由で、その人を排除するという理路は成立しない。誰もが重度障害者になる確率は少ないだろうが、全くならないという保障はなく、確率もゼロではない。
(追記):以下の間に文章を付したが、全体の流れを混乱させるので下記に付した)
私もふくめ、植松にもなんらかの事故で重度障害者になり、社会福祉の恩恵をうける蓋然性はある。交通事故や災害にあうことで重い障害を負うこともあれば、何かの病気でいわゆる植物人間になる確率はゼロではない。それは疑いのない事象(現実として起こり得る)ものであり、老若男女を問わず避けようがない厄災というしかないのだ。
そう、どう考えても植松には想像力が欠如している。彼がどんなに日本の将来を憂い、不安や危機感を募らせたのは個人の自由。だが、障害者になれば排除されてもやむを得ない。その自身の抹殺理論を適用されるとどうなるか・・。利己と自己都合は違う。自身の未来、あるいは自己のリスクに向けるイマジネーションを働かせる力量は残念ながらなかったのだ。
「命の選別」が公共性とか国の財政をささえる究極の選択だとしても、その基準・公準は限りなく曖昧でしかなく、その線引きはつねにゆれ動くものとなろう。
植松の逮捕後、彼を支持し賛美する人もけっこういたらしい。彼は熱烈なトランプ元アメリカ大統領の礼賛者であり、そのことも植松のファンを増やすことになった。社会にとって無用なもの、お荷物な存在、害であり金を浪費するものは生きる価値がない。これはまさしく強迫観念の表れであり、こんなものに苛まれる理由はない、というか理解不可能だ。しかし、少なからずそんな価値観をもつひとが増えているといわれる。
以前、世代別の価値観を考えたとき、「良いか悪いかを基準とする」善悪・道徳判断説、「損か得かを基準とする」損得・経済判断説、「好きか嫌いかを基準とする」感性‣感覚判断説にくわえて、特に「役に立つか、役に立たないかを基準とする」機能・優劣判断説を1990年代以降に生まれた人の価値観として分析したことがあった。
まさに社会に機能しているか、しないかは、失われた日本の経済状態のなかで生き残る、厳しい競争社会のなかで有用な人間として認められる確かな指標と言えるかもしれない。それは、不景気な時代の雰囲気しか知らない若者にとって、高学歴でも性格が良くても、社会の一部としてのファンクションであらねばならないのか・・。身体に障害があるという目に見える機能性はもとより、その場の空気を読めるのか読めないかという「KY理論」でさえも、ある種の機能性として認知され、それをスマートに習得することを問われている。
嗚呼、人間を機能性の有無で問われるのは、肌の色で選別されるよりも陰湿で手強い。少なくとも社会の役にたち、国家レベルでの「利他性」に寄与するから、それに異を唱えにくい。
論者のひとりが驚くべき分析をしてみせた。ナチズムが勃興したときも、ドイツ国民にとっての利他性が強調され、それに乗じてユダヤ人の排除、抹殺へとエスカレートした。また、最近の欧米においてテロとは呼べない、動機が不明の大量殺人事件が頻発している。いずれも白人の男性による犯行で、これらは宗教的確信および「利他的」な信念による犯行動機を逮捕後に匂わせている。その論者は、その奥のもっと深いバックグランドを示してはくれなかった。
植松の犯行は、特殊なのか例外なのか。それともハンナ・アレントが指摘したどこにでもいる人間が手に染める「凡庸なる悪」と同質か、それともその裏腹にあるような人間の業みたいなものか・・。
もうあれこれいうのはよそう。第一、愚生そのものが社会的機能をほとんど失っているのだ。自嘲ではなく峻厳なる事実だ。妄言多謝。
(注1)植松聖はいまや死刑囚として接見や手紙のやりとりが制限されている。雑誌月刊『創』の篠田博之氏は、事件の当初より相模原事件を特集し、また最首悟氏と同様に植松と書簡を交わしている。死刑囚に現金を送付することは許可されていて、その返礼の手紙を植松は送ってくるというが、簡潔さを旨とし、差しさわりあることは検閲され、黒塗りにされるとのこと。篠田氏は植松の安否確認のためにも現金を送付している。
最近の植松は、心を落ち着かせるためか絵を描いている。植田氏がどうやって入手したか失念した。母親がマンガ家であり、幼少の頃からマンガを描くのは好きだったらしい。何かの観音像か、素人からすれば巧いし色づかいが独特である。植松は家族のことになると、話をやめ内にこもることが知られる。植松は犯行時、心神喪失や心神耗弱がなかったとされ、司法からは精神鑑定を不要とされた。だから、死刑執行は池田小事件の犯人と同様にはやいと予測されている。事件の解明よりも、刑の執行に重きをおいている司法の狙いは、要するに権力の誇示、あるいは為政への忖度か・・。
(追記):社会組織における「役割」を、あなたは意識することがあるか。年金で生活する者は、所属する会社・組織、地域コミュニティへの貢献により補償されるという「幻想」はもはや消失している。何が言いたいかというと、「役割」なんて妄想の産物でしかない。それらしき「役割」幻想をつくり、誇示する現実世界はあるのであろう。なぜなら潤沢な資産があれば、社会有用な理想の自己像を構築すべく自社および広告マーケティング会社が請負う。やがて、都合よいアルゴリズムを設計し、信頼されるAIシステムに委託される。それは、同調と共感を誘うべき実像として作りあげてくれるプラクティスだ。GAFAMのceoの振舞いを参照してほしい。この事象を頂点とすれば、底辺(システムの下支え)としての庶民というものは、社会における「役割」を自己像としてイメージする度量などもたない。いや良い意味で、そんな発想さえも思いつかないのではないか・・。これについては、稿を改めて記述したい。
植松聖が起こした相模原障害者殺傷事件は、現代社会に大きな問題点を示した事件であり、その意味でとても深刻な事件だと思います。
貴ブログに社会の役に立つか、立たないかは、それは他人様の評価に任せるべきだとあります。自分がどう考えるかも大事でしょうが、多数決による民主主義の世の中ですからそれ以上に、社会つまり一般の多数の人がその主張をどう見るかが大事です。分かり易くするために極端な言い方をすれば、植松の主張が現代の主流になりかけているのだと思います。
以前お示ししましたが、学習院大学の部門内ですが最優秀卒業生の謝辞、彼女は何と言ったか。私は、大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。謝辞を述べるなら自分自身に対してだ!と言ったのです。はすみとしこは「そうだ!難民しよう。他人の金で」と言ったのです。障碍者、難民、老人、貧困者・・自分の金で生きていけない赤の他人を、私のお金で養いたくない。私のお金で養われていると思うとゾッとすると言っているのです。副総理は何と言ったか?「日頃不摂生をしている人が病気になる。そんな人に健康保険のお金がどんどん使われる。これってどうかね」と言っています。植松も同じです。植松が現政府のトップを同志と考えるのは当然でしょう。
なぜ人間は誰もが平等なのか。誰の生命も同じなのか。私の講演時にお示ししましたが、コメントくださった立命館大学の松尾匡教授のご著書の表紙の帯にはデカデカと「人は生きているだけで価値がある」と書かれています。なぜこのような気持ちが心の底から湧き上がってくるのでしょうか。そこを明確にしないと、我々は、植松や学習院の優秀な卒業生や、はすみとしこや政府のトップ、それと同調する大勢の人たちに負けてしまうでしょう。植松にも、学習院の卒業生にも、はすみとしこにも信念があるのです。そしてそういう信念を持つ人たちが、今、多数になろうとしています。今、世界中で貧富の格差が広がっています。貧富の差の拡大は、こういう信念を持つ人たちの拡大とシンクロしているように思います。
その論拠について私は講演いたしました。
たくさんの有識者にご登壇いただいて。コメントをいただきました。でも私の話を深く理解してくださったとは思えませんでした。一度では無理でしょう。これからも継続していきたいと思います。
ご参加くださり、また貴重なブログを有難うございました。
「植松の主張が現代の主流になりかけている」という言は穿った見方かもしれません。
たしかに第2、第3の植松が出てきてもおかしくない、そんな状況はありますね。コロナ禍だから余計に感じます。
ましてポストコロナの経済環境は今後10年間続くという予測があります。非生産的かつ社会の厄介者は肩身の狭いおもいというか、標的にされるかもしれないです。
私は、日本はまだそこまで落ちてないし、心配には及ばないと思うものの、学習院大学の卒業謝辞のはなしを聞くと、そら恐ろしい限りです。
でも森中さん、根源的に自己チューの人間が増えたら最終的に彼ら同士で潰しあうしかないです。
その前に弱者が排除されるとご心配でしょうが、そんな国体になれば世界で孤立します。トランプだって4年しかもたなかった。
いざとなれば老体に鞭打って闘う覚悟はあります。やりましょうよ、森中さん。
でもね、大勢が、主流がそんなふうになったら、心のなかでどうぞご勝手にやったんさい、などという弱気な芽もあるんです。
70になっても鳴動しますね、小物は・・。いやソクラテスの心境になって、潔く毒杯をあびますか。
最後になりますが森中さんのスライドを拝見し、その感想を正直に書きます。
主張すべき論点の結論から展開なさったらいかがでしょうか。
立場上しょうがないのかも知れませんが、前段の「生物地理学」についてはなにか啓蒙的で、講義のようでした。
もちろん「利他性」との関連は理解できましたが、植松までの展開がどうしても迂遠に感じます。
アクチュアルな題材なのに生物地理のツリー構造の説明はやはり重たいです。
このコメントで書いていただいた心配とか不安、そんな個人的感情などから単刀直入に斬りこんだらいかがでしょうか。
前回のシンポジウムでも同じような印象をもちましたので、あえて正直に書かせていただきました。
先輩に対して失礼な言であることは百も承知です。なにとぞご海容のほどお願い申し上げます。