「アメリカ人は「因果推論」がお好き?」という拙ブログの記事の末尾に、「宇沢弘文は生涯にわたってミルトン・フリードマンの名を口にしたことがなかった」という一文を寄せた。その理由として、晩年近くに「ビデオニュース」というネット配信番組に宇沢弘文がゲストとして登場した時、彼の口調は何かをグッと堪えながら重々しい口調で話していた。その仙人のような顔がやや苦痛に見えたことが、鮮明に残っている。
シカゴ大学の教授時代の回想、自身の経済思想について語るなかで、明らかにM.フリードマンをさしていると類推できる話題があった。白い髭をたっぷり蓄えた宇沢先生は、忸怩たる顔で「名前はここでは言いたくないのです」と、口にすることを憚った。決然としてまなじりを決し、絶対に話したくないと・・。
いったいどんなことがあったのだろう? 宇沢弘文の拘泥りは、老いても潔く、彼の風格を少しも損なうものではない、そんな印象をいだいた。(ビデオニュースは有料会員だけが視聴できるが、1か月が5週あるときに限って、5回目の金曜日には無料で誰もが観られる。この回は無料で視聴できたはずである⇒追記)。
宇沢弘文の最後の著書といえるのか分からないが、二、三日前から『人間の経済』という新潮新書を読みはじめた。第1章の段階でフリードマンにまつわる言説が多々あり、忘れないうちに書いておこうと思った次第、備忘録としても書いておきたい。
最初の「『自由』と『利益』の暴走」という章の、「モンペルラン・ソサエティ」と「ミルトン・フリードマン」および「選択する自由」という節のなかで、宇沢は、M.フリードマンを簡潔かつ冷静に批判している。
フリードマンの名前が宇沢弘文の口からでる、オフレコで語られることはあっても、少なくとも著述では公にされることは考えられなかった。決して口にはしないと言っていた彼が、新潮社の編集部にたいしては、シカゴ時代の体験や心情を吐露していたのだな、と感慨を深くした。
さて、この本は2017年に出版されたが、全編が語り下ろしのような体裁であったのでその場では買い求めなかった。最近になって古本屋で見つけ、これはと思い買ったのである。我ながら、卑しいしみったれ野郎と自嘲せざるをえない。
宇沢弘文は2014年に亡くなったが、奥付をみると、2009年に新潮新書の編集部は『人間の経済』の刊行を依頼し、数回のインタビューや講演録をもとに原稿を作成したとある。内容・構成については了承を得て、発刊作業をすすめていたが、2011年3月に体調を崩したことでストップした。「著者としての細部にわたる校正作業はおこなわれませんでした」とも書かれてあった。
それから約6年、宇沢弘文の思想、業績などは広く認知されるべき、社会的役割すなわちニーズ(需要)があると鑑み、遺族との了解をえて刊行の運びとなったと記されている。
もし、健在であったならば、ミルトン・フリードマンの名は表面に出なかったと思う。が、下司の勘ぐりを躊躇わない読者、つまり愚生からすれば、(第三者経由で、ゆるい雰囲気のなかで)宇沢弘文は、フリードマンの名を出した。それでもなお、恨みがましいことを封印して語ったことが記載されている。
(小生、ここに及んで、実に溜飲の下がる思いにいたったのである)。
前文に娘さん占部まり氏が、父親の世界観をあまねく伝えたいという魂魄の思いが述べられており、こういうかたちであっても刊行されたことは悦びであるという。宇沢本人がどういう思いでいるのか、天上で苦々しくも笑っていそうな気がする。
ここで宇沢弘文がミルトン・フリードマンについて何を語ったのか、いくつかを紹介したい。
新自由主義の出発点を作ったハイエクと(フランク)ナイトをはじめとする経済学者、政治家、言論人たちによる運動は、その後、ミルトン・フリードマンをリーダーとする市場原理主義の大きな渦に巻きこまれていきます。(中略)しかし、市場原理主義は新自由主義からどんどん踏み込んでいって、市場で利益をあげるためならば法も制度も変えられる、要するに儲けるためならば何をしてもいい、挙句にそれを阻止するものがあれば水爆を落としてもいい、というまともな人間の理解の度をはるかに超えたところまでいってしまいます。
「水爆を落とす」という衝撃的な話は、別に大袈裟な表現ではない。かつて民主党ジョンソンと共和党ゴールドウォーターが大統領選を争ったとき、「ベトナム戦争を終結するためには水爆を使うべきだ」とゴールドウォーターは主張した。世界各国から猛反発を喰らったゴールドウォーターを終始擁護したのは、実はM.フリードマンで、彼自身もまた、「自由主義を守るためにはベトナムへの水爆投下は必然であり、一人たりとも共産主義者を徹底的に排除」すべきだと冷徹に言い放った、と宇沢は書いている。
これに関するエピソードで、フリードマンの親友にエドワード・テラーという核物理学者がいた。マンハッタン計画を統括していたオッペンハイマーの愛弟子である。その後、実際に広島と長崎に原爆が投下され、その破壊力と被害の甚大さにオッペンハイマーは、もの凄いショックを受けた。
自身の罪深い行為を悔い、原水爆反対の立場に転じたオッペンハイマーは公職追放されることになる。その原因となる公聴会で、オッペンハイマーを追い落とす証言をしたのは、なんと弟子のテラーだった。フリードマンは親友テラーを擁護するために、「共産主義から自由を守るためには水爆を使うべきだ」と主張したし、一貫してテラーを全面的に賛同しつづけた。
宇沢はその事実を淡々と編集部に語ったのだろう。ことさら攻撃的でフリードマンの人格を貶めるような、批判的な言表はなく、事実そのものを話している。最後はしかし、「オッペンハイマーの弟(物理学者)まで大学を追われ、その娘さんは職を得ることができず自殺に追い込まれたのです」と、救いようのない事実が書かれてある。宇沢が言いたいことは明白である。
宇沢弘文は34歳で教授になるほどの気鋭の経済学者であったが、そのシカゴ大学時代、同僚フリードマンの言動にはつねに悩まされていたらしい。ある時、フリードマンの過激な言動に業を煮やしたのは、上司ともいえるフランク・ナイトだった。師匠の監修のもとで書いたフリードマンの論文、その公表を禁じたのである。事実上の破門だが、日本への原爆投下を当然のことと吹聴するフリードマンに堪忍袋をついに切らしたのだ。
なぜなら、ナイトは広島の原爆で両親を失くした女の子を養女として育てていたからだ。このエピソードは、小生は全く知らなかった。
余談だが、近年フランク・ナイトの評価は高まり、ちょうど100年前の主著『リスク・不確. 実性および利潤』(※注)が筑摩書房から復刻されたばかりだ。フリードマンの『選択の自由』がいまだに副読本として読まれているのは、いかに市場原理主義の影響は大きく、世界の経済界を長期にわたって支配したかが思い知らされる。
アフターコロナでは、こうした経済学における近年の学説、理論の読み直しは必須であり、AIや再エネ・脱炭素をふまえた新時代のオルタナティブ・エコノミーを構想してほしいものだ。
フリードマンのエピソードをもう一つ。黒人問題について、彼らの貧困は経済学的な問題ではなく「ティーンエイジャーの頃に遊ぶか勉強すべきか、その合理的な選択の結果にすぎない」と刺激的なことを大教室で発言したという。そのとき大学院生が「お言葉ですが教授、私には両親を選ぶ自由があったのでしょうか?」との質問には、フリードマンは沈黙。グーの音も出なかったという。
宇沢はまた、フリードマンが一貫して麻薬の取り締まりには反対していた事実を指摘し、鋭い舌鋒は休まない。
麻薬による快楽と、麻薬中毒による苦しみと、どちらかを「選択する自由」を奪ってしまうのはいけない、というのがその理由でした。ここにこそ、市場原理主義の奥深くに根付いた考え方があるのです。
自説を貫くためには、都合が悪くなれば善悪の境を誤魔化して理論的に語るのか・・。フリードマンは「合理的期待形成」なるものを強調したが、これはついて宇沢弘文は以下のように批判している。
(合理的期待形成とは)各人が将来のことを正確に知っていることが前提になります。すべての人が客観的な確率分布を知っていて、その上で自分にとって最良の選択をすることが「選択の自由」だというのですが、それではマーケット自体が成立しません。マーケットというのは、将来のことも、他の人々がどう行動するかも分からないが、マーケットという場において一つの均衡点を見出そうとするものだからです。
人間の生業というものが、人間の心があって存在する。心があるからこそ社会が動いていく。マルクス経済学も新古典派経済も、人間は計算だけをする存在であって心をもたないものとしてとらえている・・。宇沢弘文は学生時代は数学を専攻していた。しかし、戦後の混乱のなか、純粋な数理学だけの研究では、人間の心までを豊かにすることができないと痛感。それで、経済学に転じたという。
『人間の経済』の第1章以外は、まだ拾い読みの段階だが、読みやすいが含蓄のある文章が連なる。宇沢弘文の語る言葉そのものが、先端の数理経済学を極めたゆえの、人間性の深奥さに呼応するかのようだ。
蛇足、フリードマン以外のエピソードを最後にしたい。
シカゴ大の前のスタンフォード大の助教授時代のこと。社会学における「認知不協和理論」の大家レオン・フェスティンガーと家族ぐるみで親しく付き合ったという。大衆はときに暴動をおこすこともあり、その社会心理学的分析を展開した彼を、宇沢は傑出した天才と評価している。驚いたことに、フェスティンガーは当時、安倍公房の小説に傾倒していて、その影響もあって宇沢弘文は、現代文学の安倍公房や大江健三郎を読みだしたという。
この辺で筆をおきたい。
(※注)『リスク・不確. 実性および利潤』シカゴ学派の始祖として活躍し、20世紀の社会科学に大きな影響を与えた経済学者フランク・H・ナイト(1885‐1972)の主著。自由主義と市場経済を擁護しつつ、自由放任を是とする新自由主義を批判した。本書でナイトは、「リスク」と「不確実性」を峻別し、現実の経済に存在する「不確実性」こそが企業経営における利潤の源泉であると説明する。もちろん未読で、小生その知力も体力もなし。解説をコピーするのみ。
追記:読者に紹介して、こと足りたとするのは無責任かと思い、遅ればせながら動画を添付する。(2021・12・26)
Part1】宇沢弘文氏:TPPは「社会的共通資本」を破壊する
【Part2】宇沢弘文氏:TPPは「社会的共通資本」を破壊する
我欲煩悩の追求を自由に行うためにその媒体である「会社」にも人格を持たせて政治に参加させる権利まで持たせたのが現在の米国の姿。もう滅茶苦茶です。
仰るとおり、アメリカで生まれた「自由」は本家本元のヨーロッパのそれとは逸脱しました。リベラルとフリーダムの定義を混同したのか、「責任」という概念を都合のいいように捨象した。
ヨーロッパ移民で構成された、自由の国アメリカでは、野放図のようにフリーダムが培われた。自国の「自由」(この時は表向きにリベラルを標榜しました)を守るために原爆は落すは、自己都合で嘘をでっちあげて戦争を仕掛けた。
どうしたわけか、知識人は別にして、国家レベルでアメリカを非難し、諫言した国や国家元首はいない。
私もrakitarouさんと同じく、間違った「自由」がアメリカ合衆国に蔓延しているに違いない、そんな感慨をもっています。
いま、人種差別、麻薬、格差、陰謀論など、アメリカ発のローカル的な難題がワールドワイドに浸透していると考えます。イギリスをはじめとするアングロサクソン諸国、そして日本、韓国へと・・。
私はバイデン政権は短命とみていますが、その反動としての共和党政権になった以降のアメリカ、もしも経済覇権を中国が掌握してからのことですが、まさしくも自由と責任は不可分のものとしての「規範」を失ってしまった米国の処し方が不安でたまらない。
どう考えていいか、その道筋をいま模索しています。