小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

殉教を考える

2017年02月20日 | 日記

 

前回のブログより続き

どちらかといえば無神論に近いと自認している。とはいえ神社仏閣に行けば、世間並みに祈り賽銭を投じる。結婚はキリスト教プロテスタント派教会でとり行い、親の葬式は仏教に依った。極めて無節操であろうが、誰かに咎められる筋合いのものではない。

今後、身辺に大きな変化が生じて、救いを求めるべくより強い宗教的な何かにすがりたくなったら、それはその時の流れ。無節操に輪をかけるご都合主義、意志薄弱、日和見だと、他人様は私を非難するに違いない。

日本における宗教の考え方、その世相や実態がどんなものであるか知らない。社会学では精密な調査や分析がなされているだろうが、オウム真理教のような極端な宗教による諸問題は、いまの日本には存在しない。現在は、人々がこぞって宗教に依存しているようには感じられない(表層だけか)。

日本はいま「性が氾濫する」国として世界から注目されているという。ある意味で規範を失い、道徳も軽んじられるタガの外れた社会だ。仏教であれ、キリスト教であれ宗教に帰依している人々にとって、現在の日本は苦々しく堕落した社会だと嘆かれても仕方がない。


キリスト教について私が単刀直入に切り出せないのは、いわゆる秘儀、玄義ともいうが「天啓によってもたらされる真理」を理解できないことにつきる。ただしその存在を信じている方々に対して、否定も肯定もしない。もうすこし具体的にいえば、キリストの復活、マリアの処女懐胎、さらに受肉という考え方などに関して、私の微かな理性が否をとなえるからだ。

殉教のことも、今まで書いてきた延長線上で考えると、否定する事象ということになる。ただ、日本の仏教史をひもとくと、涅槃に至る「即身仏」という究極の修業がある。これはもう、「浄土=死」に向かう殉教といえ、「真理」の体をなしている。

ともあれ、私はキリスト教というか宗教のもつ偉大さ、力というものを否定するものではない。

肉親、愛する人を失った悲しみ、人生の節々の挫折、懊悩や焦燥、そういった人間の精神的危機を「救ってくれる」ものは、宗教がもっとも有力だと考える。

そう考える一方、と同時に、キリスト教だけではなくユダヤ、イスラム教を含めての一神教だけがもつ独善、頑迷、排他的なところは受け入れることはできない。

書いていることは矛盾しているかもしれない。これらは明快に論がすすめられるものではない。ご海容のほど願いたい。


さて、竹下節子氏はこう書いている。「殉教者のなかには、原理主義的な偏狭の罠に捕えられたり、『義に殉じる』『誓いに殉じる』という原則を貫いたりしたのではなく、純粋に『愛』のために死んでいった人々がいる」。そして、「多くの『庶民』に殉教の覚悟を促したものは、キリスト教の根本にある『自由』のメッセージだった」。

キリスト教がご禁制となり、隠れキリシタンの人々は、生きる歓びを何に見出していたのだろうか。一生おなじ土地に縛られ、働き・使われ、搾取され、家族の安寧のみを願っていた。厳しい弾圧と、容赦のない取調べはたぶん終わりがない。彼らの閉塞感は如何ばかりのものだったか。

彼らが心から求めていたのは、なんの柵(しがらみ)もなく、自立して生きることだったに違いない。どんなに努力しても報われない、どんなに祈っても救われないならば、それは死に等しい。現在では当たり前の、どこにでもある「自由」と「平等」。それは、神よあなたが、もたらしてくれているのか・・。

神はいつも沈黙したままで。映画のパードレ(神父)だけは、イエスの声をきき棄教した。殉教者の多くは、2008年に「福者」として称えられた。(※)

殉教はいま、一神教のイスラームに伝播し、ジハード(聖戦)として自爆テロになった。


こんなイエスの言葉が象徴的である。

あなたは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。


なぜ私が殉教を否定し、キリスト教の「自由」にシンパシーを感じるのか。それはまた、別の機会にする。

▲サグラダファミリア:受難のファサード(西側)イエスが十字架にはりつけになるまで70%程の完成度か。


(※):2008年長崎市で17世紀初頭に殉教した人たち、司祭になるべくローマへ徒歩で行ったペトロ岐部や、天正遣欧少年使節の一人である中浦ジュリアンら188人が「福者」として称えられた。また、今年2月7日に高山右近の列福式が大阪城ホールに10000人を集めて行われたことを、竹下節子氏のブログより知った。高山右近についてはご存じ方もいるだろう。弾圧を受けて海外に逃れたキリシタン大名として有名である。彼の客死は、殉死も同然ということか・・。カトリック教会では、死にも位階があるようだが、なぜ今なのか判然としない。


▲今年の2月8日、高山右近「列福式感謝ミサ」。2月7日大阪城ホール列福式の映像→:www.youtube.com/watch?v=d96PSEkMqHo


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