前回のブログより続き
どちらかといえば無神論に近いと自認している。とはいえ神社仏閣に行けば、世間並みに祈り賽銭を投じる。結婚はキリスト教プロテスタント派教会でとり行い、親の葬式は仏教に依った。極めて無節操であろうが、誰かに咎められる筋合いのものではない。
今後、身辺に大きな変化が生じて、救いを求めるべくより強い宗教的な何かにすがりたくなったら、それはその時の流れ。無節操に輪をかけるご都合主義、意志薄弱、日和見だと、他人様は私を非難するに違いない。
日本における宗教の考え方、その世相や実態がどんなものであるか知らない。社会学では精密な調査や分析がなされているだろうが、オウム真理教のような極端な宗教による諸問題は、いまの日本には存在しない。現在は、人々がこぞって宗教に依存しているようには感じられない(表層だけか)。
日本はいま「性が氾濫する」国として世界から注目されているという。ある意味で規範を失い、道徳も軽んじられるタガの外れた社会だ。仏教であれ、キリスト教であれ宗教に帰依している人々にとって、現在の日本は苦々しく堕落した社会だと嘆かれても仕方がない。
キリスト教について私が単刀直入に切り出せないのは、いわゆる秘儀、玄義ともいうが「天啓によってもたらされる真理」を理解できないことにつきる。ただしその存在を信じている方々に対して、否定も肯定もしない。もうすこし具体的にいえば、キリストの復活、マリアの処女懐胎、さらに受肉という考え方などに関して、私の微かな理性が否をとなえるからだ。
殉教のことも、今まで書いてきた延長線上で考えると、否定する事象ということになる。ただ、日本の仏教史をひもとくと、涅槃に至る「即身仏」という究極の修業がある。これはもう、「浄土=死」に向かう殉教といえ、「真理」の体をなしている。
ともあれ、私はキリスト教というか宗教のもつ偉大さ、力というものを否定するものではない。
肉親、愛する人を失った悲しみ、人生の節々の挫折、懊悩や焦燥、そういった人間の精神的危機を「救ってくれる」ものは、宗教がもっとも有力だと考える。
そう考える一方、と同時に、キリスト教だけではなくユダヤ、イスラム教を含めての一神教だけがもつ独善、頑迷、排他的なところは受け入れることはできない。
書いていることは矛盾しているかもしれない。これらは明快に論がすすめられるものではない。ご海容のほど願いたい。
さて、竹下節子氏はこう書いている。「殉教者のなかには、原理主義的な偏狭の罠に捕えられたり、『義に殉じる』『誓いに殉じる』という原則を貫いたりしたのではなく、純粋に『愛』のために死んでいった人々がいる」。そして、「多くの『庶民』に殉教の覚悟を促したものは、キリスト教の根本にある『自由』のメッセージだった」。
キリスト教がご禁制となり、隠れキリシタンの人々は、生きる歓びを何に見出していたのだろうか。一生おなじ土地に縛られ、働き・使われ、搾取され、家族の安寧のみを願っていた。厳しい弾圧と、容赦のない取調べはたぶん終わりがない。彼らの閉塞感は如何ばかりのものだったか。
彼らが心から求めていたのは、なんの柵(しがらみ)もなく、自立して生きることだったに違いない。どんなに努力しても報われない、どんなに祈っても救われないならば、それは死に等しい。現在では当たり前の、どこにでもある「自由」と「平等」。それは、神よあなたが、もたらしてくれているのか・・。
神はいつも沈黙したままで。映画のパードレ(神父)だけは、イエスの声をきき棄教した。殉教者の多くは、2008年に「福者」として称えられた。(※)
殉教はいま、一神教のイスラームに伝播し、ジハード(聖戦)として自爆テロになった。
こんなイエスの言葉が象徴的である。
あなたは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。