古本市で買った穂村弘の「野良猫を尊敬した日」という著書から。同名のエッセイにこんなことが書いてあった。
人間は犬や猫のことを上から目線で「イヌネコ」などと云うが、その「イヌネコ」は、お金も洋服もスマートフォンも何一つ所有することなく一生を過ごす。実はもの凄い存在なのだ。という意味だろう。本当にそうだなあ、と思った。彼らはその日の食べ物すらキープしていない。一瞬一瞬をただ全身で生きている。命の塊なのだ。
そうやって穂村は風邪で弱った体を奮い立たせる。野良猫の「捨て身」の全身パワーにあやかりたいと願っている。あの小さな身体に秘められた、漲る力はどこから来るのか。飼い猫になっても、野生を失わない自立心の源泉とは何だ。
生まれた時から野良だった猫は、独立心が強くまた縄張り意識も激しいので、自分の母猫でさえも追い出すという。それほどに自主独立の精神が豊かで、孤独に強いのだ。が、一方で、仲間ともうまく生きていく柔軟性もあるから不思議。どこぞの島ではたくさんの猫がコロニーをつくりながら共存している。人間をうまく利用しながら新鮮な魚を貰い、さらにそれが観光の目玉となって繁栄しているケースもある。犬が野良になった場合を考えると、猫のバイタリティーはけた違いだ。
野良猫を単純に礼賛しているのではない。現代では、野良猫は基本的に捨て猫から生まれている。飼うこと、世話することを放棄した人たちの、無責任によって生みだされたホームレス猫だ。長期間その状態にいると野生化して、手のつけられない問題になる。
なぜ捨て猫がひきも切らず増えるのか。餌代がたいへんで生活費を圧迫したのか。飼うことに飽きたのか。世話するのが面倒になったのか。いろんな理由、家庭の事情があるのだろう。
猫から愛情をたっぷりもらわなかったせいで、猫を捨てたのではないか、と私はひそかに思っている。猫は人間とおなじだ、いろんな個性、癖がある。いろんな問題を抱え、わけの分からない行動もする。感情的になったり、攻撃的になったり、ときに鬱になったりもするらしい。ジョエル・ドゥハッスというベルギーの獣医学者の本にも、そう書いてあった。
37匹の猫といっしょに同居している哲学者左近司祥子さんの場合はどうか。一匹それぞれの個性と、誠実に対峙している。猫の人間との存在を考え、相互依存の関係も意識することなく、いつのまにか増えることになった・・(?)。
猫は隣人だ。猫は愛情や、癒し・癒されるだけの対象ではない。むしろ、人間とは対等な関係でなく、こちらから敬意をはらう。適切な距離感をおいて、おつきあいさせていただく。真剣な、愛のコミュニケーションは、そういう覚悟がないと始まらない。人間の、男対女の関係性ぐらいに重いかもしれない。そして、猫の野生、生殖の問題と向き合って、本物の猫の愛、癒しがえられる。
猫は人間に依存している、決定的に。なのに、猫自身は依存していると思っていない、それは確定的。実際に猫を飼ったことはないが、これまでの猫たちとの交流や、大島弓子の漫画を読んだりして、私は勝手にそう思う。
人間は自己都合により猫を放棄するが、猫はそんなことはしない。嘘もつかない。そこが偉大だと思おうではないか。そして、愛情のブレがあるとしても、人間ほど激しくはない。猫は人間を捨てることはないのだから。
いたずら好きなふくろうは
ごきげんでホーホーと鳴き
猫のピエロットはごろごろと
掌の下でさざなみをたてる
夜もなかば
生きていることの至福よ!
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