ブログを書けない状態が続いた。まったく書かないのは精神衛生上よろしくないので、なんとか書こうと思う。
今日は「終戦の日」でもあり、この日や広島・長崎の原爆投下の日については、これまで何かしら書いてきたし、書き足らないことを少し残しておくことにしたい。
2年ほど前に「終戦の日」について書いたことがあって、遡って読み返してみたら、なんと「開戦の日」になっていた。血流が逆流するような恥ずかしさと、呆けがとうとう来たかという認知不全を確認するに至った。なので、このままではいかんともしがたくタイトルを改めさせていただいた。
「敗戦の日」の記憶について
https://blog.goo.ne.jp/koyorin55/e/ec30023afc20adb4c1b1b68c966903ae
いわゆる8月15日は「終戦の日」として流布されているが、実は敗戦を「終戦」として言い換えて、事実を歪曲するようなバイアスをかけた。これは為政者のみならず日本国民がそれを受容する集団心理が働いたものだと考える。占領していたアメリカ政府もそれを追認し、日本統治を円滑におこなうための有効策として「終戦の日」としたものだ。詳しくは上記のブログを参考にしていただきたい。
大東亜戦争に関する言説は膨大にあるが、防衛大学の先生方が研究した『失敗の本質』という本は、ガダルカナル、ミッドウェーなど日本軍の致命的な作戦を事例にして、その本質的な欠陥体質を追及した労作である。日本人論、組織論としても現代にも通じる社会学的分析ともいえ、そのアプローチ手法を現代企業の組織・マネージメント論として展開させた数々の論考がある。事あるごとに、小生はそれらを参照することがある。
ただ、ここで書き置きたいことがあるとすれば、この著書には「戦争」そのものを定義し、これを遂行し終結に至るまでの本質的な「戦争論」(いわば現代的なクラウゼヴィッツ的『戦争論』のオルタナティブ)に言及していない。
つまり、戦争の準備段階において、戦費のバランスシート分析・確認、戦争における情勢判断・勝負判定の了解事項がない。戦争の出口戦略もなければ、軍組織を客観的・批判的に検証する密筋もルールも示されていないのだ。
「敗北」という過酷な判断をしない軍、軍人の分析を徹底的に避けたのは何故か。何がそれを妨げた要因だったのか、何が想定できるのか、敗北を認める、いや出来ないという日本軍の思想営為は、いかなる軍政の歴史観、軍人の集団心理に基づくものなのか・・。
第2次世界大戦では、イギリスは日本と同様に自国を空爆され、民間人が死傷するに至っても「敗北」を承認することはなかった。しかし、全土が焦土になるほど焼尽されたならば、敵国に対して白旗を掲げたであろう。そして、戦闘地における個々の作戦では、戦闘を持続できないほど負け戦においこまれたならば、敵国に投降して捕虜になることは了承されていた。戦争の勝敗を認識する合理的な帰結であり、倫理的な判断である。
日本軍が信奉した戦陣訓にある「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」は、敗戦を認めず捕虜になるぐらいなら死ぬ(玉砕)という精神は、欧米の戦争観からすれば理不尽かつ異常だとしか思えないだろう。
まして、日本各地の主要都市が壊滅的な空爆をうけ、民間人の夥しい死者が出ているならば、少なくと停戦を申し入れる交渉をはじめるべきだった(東京大空襲或いは沖縄占領の時点で「敗戦」は確定されている)。
ことほどさように日本の軍人は、敗北とか敗退、失敗というネガティブな視座を想定できなかった。この認知バイアスは、今日の為政者たちにも呪われたように沁み込んでしまっている。一旦退く、立て直す、敗北を検証するというパラダイムを端から放棄した。
そうなのだ、この度のオリンピックの開催でも、誰もが不安に苛まれるように始まり、前進のみに突っ走った。コロナ禍の新たな危険フェーズを目の当たりしているのに、オリンピックを無理やりにでも開催しようとする力と、あの「日本の空気」の不条理にねじ伏せられた。少なくとも愚生はそんな思いがした。
始まってからは脱力したようになって、ブログを書く気は失せ、オリンピックを漫然と眺める日々であった。そんな中で世界のスポーツ選手の活躍や感動する姿を見ているのは、なんか疚しいような自嘲したい気分になったのは噓ではない。
抗議のデモンストレーションや駅前で反対のプラカードをもって意思表示したご高齢の婦人もいたので、結局じぶんは日和見主義者だと批判されても甘んじて受け入れる気にもなっていた。
「昔軍隊、今体育系」といって、いわゆるスポーツに打ち込んできた人の精神構造を揶揄する人もいたが、そこまでスポーツ人を批判精神に乏しく盲目的に指導者に従う人たちとは思わない。いや実際には、組織のなかでは「人権」を蔑ろにし、異端分子には同町圧力を強いる「体育系」の輩もいたし、現に暗躍していることを知っている。だからといって彼らを十把ひとからげに人倫に悖る輩とは思えない。
今年の夏は、個人的にも、多くの日本人にとっても、大小あれど禍根が残るような夏だったのではないか。それにこの大雨の災厄の行く末が思いやられる。
論旨の一貫性はないものの、すこし自分の思いを書けたという気分はある。そして、災害にあわれた方々にお見舞いを申し上げ、亡くなられた方のご冥福をお祈りして、筆をおくことにする。
追記:日付にこだわって記事を拙速に投稿したために、文章の一部や字句を訂正しました。大意、文脈の変更はありません。毎度のことながら、深謝いたします。(2021.8/17)