小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

憂愁の夏、過ぎゆく

2018年08月30日 | 日記

 

読んでいる新聞のせいか、「障害者雇用の水増し問題」が止むことがない。中央省庁のみならず、自治体の採用にも及んでいるらしい。
愛国主義者ではないが、日本という国が好きな、やや偏屈な高齢者だ。老い先がどうなるか知らないが、もう少し明るい社会の話題がほしい。
なんとかしてくれ、と叫びたい心境だ。
それにしても、この国はどうして社会的な弱者に対して冷たく、平気で差別するのだろうか。
「生産性」とか「適者生存」、あるいは「発展的進化論」なる概念をもちいて、「進歩の優先」や「競争の効用」だけを、なぜ多くの人たちがあげつらうのだろうか。

障碍をもって生まれるのは本人に原因があるのではない。なにゆえに障碍をうけるのか、厳密にはなにも解明されていない、今の科学と医療。偶然に近い確率で、遺伝子レベルに損傷を被っていることもある。

いずれにしても、本人が好きこのんで障碍者になったのではない。
そういう人たちに、やさしい手をさしのべる社会はふつうで、あたりまえの世間ではないのか。話をきき、受け入れ、共に生きられる社会を、少なくとも私はのぞんでいる。
市井の片隅にいるこのリタイヤ―(私)は「生産性」は劣る。たぶん今後、人々のお情けにすがって余生を過ごすことになる。それは間違いない。
老いても金にモノを言わせ、権力の威光をかざす輩がはばを利かす。そんな社会にすみたくないな。排除されても、這い上がるぞ、そんな好々爺になってやる。

 

芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉のこえ」。この誰もが知っている名句を、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の概念で読みとく論評を読んだ。
蝉の鳴き声が岩のある「風景」に同化する。自然のなかに、異なるアニミズムを見出す。騒と静が違和感なく同一する、その絶対的矛盾はたしかに実在する。
こういう美しい日本がまだある、どこかに。(※注)

▲宝珠山立石寺

 

 

(※注)若干、文章を訂正した。この2,3年「てにをは」及び文脈の不整合は、投稿後に手直しすることにしている。(2018・9・1記)


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