竹下節子さんのブログはこの一年ほど毎日更新されていて楽しみにしている。本業ともいうべき宗教論(カトリック)やバロック音楽はもとより、フランスの政治、芸術・生活のあれこれ、もちろん日本、日仏関係について、在仏ならではの独自の視点から、情報のキャッチアップも斬新かつ質の高い文章を書いている。その簡潔にして適確な纏めかたは、まさにブログの手本であり、著作の断片のように拝読している。
先日、岡崎乾二郎というアーティストの「抽象の力」という論文に触れられ、いろいろ考えさせられたとあった。具体的なことは一切書かれていなかったが、それが私の好事の心に火をつけた。
当の論文に辿ってみれば、評論と参照とすべき図版・絵画が対になって展開されてい、ネットの利点を十二分に活かした一級の論文として読める。首肯できかねる部分もあったが、はっと目を見開かさせられる氏の慧眼の鋭さに恐れ入る。美の対象として何を、何のために、人はなぜ抽象化という作業を必要とするのか? 抽象するという精神はどこから来て、どんな力があるのか? この評論を総括すれば、そんな言い方になる。画家が表現する美の抽象化、そのモチーフの源、美学としての力、美術史として変遷をコンパクトにまとめた評論だ。漱石、熊谷守一、恩地孝四郎などの日本の作家、画家を主軸に、世界の前衛作家らも包摂した「抽象の美学」、その変遷史が展開されている。(※)
全編を精読してないが、第3章の「熊谷守一の《光学》」を読むに至って、「抽象の力」というタイトルの意味するところが腹の底に響いた。かつ熊谷守一については、筆者がもっとも敬愛してやまない日本の抽象画家だと認めていて、まずそこに共感して読んだ。
熊谷守一の画業について、まず抽象化と色彩感覚は、唯一といっていい美の世界を切り開いたと評価されている。さらに、岡崎乾二郎氏のそれは、夏目漱石がもたらした「西欧」のコンテキスト或いはイデアを、熊谷守一ならではの認識で「抽象の力」へと結実させたとするものだ。若干の相違を感じつつも、氏の卓抜たる指摘に舌を巻く。
ともかくも、最初の部分を引用する。
1903年にロンドンから帰国し、数年後には発表されはじめた夏目漱石の仕事は、若い芸術家たちの芸術理解を大きく変更するほどの影響力を持った(たとえば目の前に見えていると思っている対象の姿がいかに、脳が構成した像=イリュージョンにすぎないかを指摘する、名高い講演録「文芸の哲学的基礎」は東京美術学校での講演会を元にしている)。漱石の理論に触れた第一世代である津田青楓、坂本繁二郎、青木繁という世代が示した大きな展開=先行世代からの断絶は漱石の存在なしには説明できない。そのなかでも漱石の理論にもっとも本質的な影響を受けたと思われるのは熊谷守一である。たとえば─熊谷が人体デッサンの教室でひたすら三角や四角の幾何学的な線を消したり重ねたりしていて何をしているのかわからなかったが、のちに西洋にキュビスムが現れたのを知り、ようやく熊谷の先駆性を理解した─という、東京美術学校で熊谷と同級だった山下新太郎の述懐はよく知られている。
●漱石が示したように、あらかじめ統一された対象が実体としてあるのではない。ばらばらに入ってくる感覚刺戟=感覚の断片が、それを感受した人の脳の中で知的に作りだす構成が対象である。この落差(プロセス)が絵画の力を作り出す。
●繰り返せば感覚されたものと認識されたものの落差が与える、経験の強度にこそ、熊谷守一の仕事の核心があった(その思考は60代をすぎてから実際の作品に結実する)。現実において、われわれの感覚が捉える対象はすでに何重にも解体されている。ゆえに対象は認識のなかで何度でも蘇生もする。
●その意味で葛飾北斎の『略画早指南』の意義は、ホガースの『美の理論』や、さらには後の漫画家ロドルフ・テプフェール(1799-1846)のカリカチュア理論(『観相学試論』)が示していた通りに、うつろいゆく不安定な視覚印象を、一つの統合されたイメージとして定着させる記憶術にほかならなかった。
以上に示した岡崎氏の指摘はたいへんに特徴をとらえてい、「何重にも解体された感覚対象が、認識のなかで何度でも蘇生する」という認識は、我が意を得たりと思った。ただ、「60代をすぎてから実際の作品に結実する」という点において、わたしは若干の異論をもっている。昭和3年(1928)守一が48歳のとき、二男の陽は肺炎で急死する。そのときの作品「陽の死んだ日」は、抽象度においては不完全であるものの、子どもを喪失した悲愴なる感覚を解体しつつ、魂の蘇生としての感覚(願望)を再構成し、その「落差(プロセス)」を強度のある抽象をめざして表現していると筆者は考える。
(蛇足だが、昭和という時代に入ってから、治安維持法なり中国への侵略など世の中の動きが不穏になりつつあった。外的、私的な環境の変化も、熊谷守一の「画工」としての技量に大きな変化をもたらした思われる。50代における守一の作品を一つひとつここでは鑑賞できないが、60代以前に守一の抽象化の画法はほとんど完成の域に達している、というのが筆者の見立てだ。)
なお、葛飾北斎の「略画早指南」やホガースの「美の理論」などについて熊谷が若いころに学び取り組んでいたという事実、1908年の「轢死」という作品について参考にすべき記述があったが、筆者は今のところ確認できていないし、不勉強を恥じるしかない。
▲「陽の死んだ日」熊谷守一48歳のときの作品
▲「ヤキバノカエリ」昭和22年、守一67歳。熊谷流抽象化の世界、その到達を示した。
▲「夕立雨水」熊谷流抽象画の極北である。1968年、守一88歳。
さてさて、漱石の「草枕」と、熊谷守一の画業との関連について書かねばならない。岡崎氏の評論ではまず夏目漱石という「核」があって論が展開するのだが、私の場合はどうも逆になってしまった。悪い癖でだらだらと書いてきて長尺になってしまった。とりあえず仕切り直して、この話題の続きを次回に持ち越しとしたい。
(※)岡崎乾二郎・「抽象の力」→http://abstract-art-as-impact.org/jp-text.html (ダウンロード時におかしな現象あるが、画像・文章クリックすれば平常になります)
全体の章立てを参考までに紹介
1|キュビスムと《見えないもの》
2|漱石と《f+F》
3|熊谷守一の《光学》
4|恩地孝四郎と《感情》
5|第一次世界大戦とダダイズム
6|《ピュトー・グループ》
7|ポアンカレと《不気味なもの》
8|「写実の欠除」としての超現実
9|《新感覚派》の変化物・奇形物・実用物・具象物
10|《アール・コンクレ》、ダダをこねる
11|第二次世界大戦の『視覚言語』
12|戦後美術のスペシフィック
最終章では、フォンタナやフォートリエに触れられている。「書」に連環するピエール・スーラージュにも言及してほしかった。
しかしながら、本記事の続きを読んでいただきますと、実のところ記事としては破綻することがみえています。
ひとえに美学の泰斗、岡崎乾二郎氏の論文に依拠した、なんとも稚拙なものでして、果たしてそれは漱石の文学理論を受容したものなのか?
今となってみれば、分からないのです。小生も30年ほど守一のファンですが、晩年に向っておそるべきほど抽象度を増し、独特の美しさを達成しました。
それは、亡くなる20年ほど前から、まったく自宅を出なかった、いわば引きこもり状態で庭の自然物だけを観ていた。
そのことの方が抽象する美意識を醸成したのではないか、と考えるようになりました。
なお、岡崎氏のそれは、『抽象の力 近代芸術の解析』(亜紀書房)として上梓され、何かの賞を取ったほどの力作です。
ポク様 漱石と守一とのことで新しい情報がありましたらお知らせください。よろしくお願いします。
言葉は△こころは▢ (くるり) が思い浮かんだ。
こころをばなににたとえん真四角に
真四角はカオスコスモス帯同す
真四角はながしかくから創り出す
真四角はもろはのつるぎ絵本あり