最初に「熊谷守一と、漱石の草枕②」は、挫折したことをお断りしておかねばならない。深謝あるのみ。
熊谷守一が漱石の芸術論に多大なる影響をうけたことはわかるが、「草枕」という作品からの確かな影響、何らかの相関関係は認められなかった。あるとすれば、それは研究者の仕事であり、素人がちょっかいを出す筋合いではなかった。他人の褌で相撲をとろうとするから、こういう結末をうむのだと只管自省するしかない。
岡崎乾二郎氏の「抽象の力」に感化されたのが発端であった。
それから、18世紀の小説家 ローレンス・スターン(1713~1768)の畢竟の小説『トリストラム・シャンディ』の存在を知ることによって、私の思考が迷走しだした。この小説が「草枕」で紹介されていることは記憶になく、実は1969年に岩波文庫から全3巻で出版されていたことも知らなかった。2005年には、イギリスの映画監督マイケル・ウィンターボトムによって映画化もされているし、日本未公開ながら後年『トリストラム・シャンディの生涯と意見』の邦題で、何某で放映されたという。
それはともかく。岩波の文庫目録の解説によると、プルーストやジョイス等の「意識の流れ」の源流・先駆的作品ともいわれ、内容・形式ともに奇抜。ストーリーは一貫性なく脱線また脱線、独特の告白体の文章が、移り変わる連想を写しだし、いつのまにか摩訶不思議なユーモアの世界に引きずり込まれるとのこと。
漱石の「草枕」では、「トリストラム・シャンディ」がどんなふうに紹介されているだろうか繙いてみた。11章の初めのほうに、さりげなく書かれてあった。
トリストラム、シャンデーと云う書物のなかに、この書物ほど神の御覚召(おぼしめし)に叶うた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力で綴る。あとは只管(ひたすら)に神に念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見当が付かぬ。かく者は自己であるが、かく事は神の事である。従って責任は筆者にはないそうだ。余が散歩も亦(また)この流儀を汲んだ、無責任の散歩である。只神を頼まぬだけが一層の無責任である。スターンは自分の責任を免れると同時にこれを在天の神に嫁した。引き受けて呉れる神を持たぬ余は遂にこれを泥溝(どぶ)の中に棄てた。(新潮文庫より)
神からの啓示を受けとめるがごとく、自意識の移ろいゆく流れ、想起する由無し事柄を無責任のまま書きすすめる。あたかもシュールレアリスムの無意識の自動記述のような手法といえようか。この「トリストラム・シャンディ」を初めてわが国に紹介したのは、むろんのこと漱石。ロンドン留学当時には、ウィリアム・ジェイムズ等の心理学が持てはやされ、ローレンス・スターンという作家は心理小説の先駆者として認められてい、漱石は通読していたはずである。
さて、前回の記事でふれた岡崎乾二郎氏の「抽象の力」では、「トリストラム・シャンディ」について下記のように記されている。
実験的作品、小説はあらかじめ規定された結論に経験を到達=還元させてしまわないこと、つまり確定的ロジックで出来事を要約、結論づけてしまうことのへの抵抗によって形成される。それを迂回させる潜在性の領域の自覚こそ小説によって与えられる経験の本質である。それこそが「トリストラム・シャンディ」によって挿入された抽象パターンに内包されたものであり、その語りがたさこそが小説を可能にするものだった。
かなり韜晦な文章である。辣腕な編集子なら文意が掴みかねるとして推敲を迫るかもしれない。素人の私では解釈はできかねるので、とりあえず「「トリストラム・シャンディ」に挿入された「抽象パターン」を確認したい。だが、現時点で「抽象の力」のすべてが流用できなくなってしまった。で、 ローレンス・スターンが「私のこの著作のゴチャゴチャした象徴は、このような墨流し模様だ」と書いている、その抽象パターンの墨流しがネットにあったので転載する。
▲ 画像は19世紀イギリスの墨流し模様。
閑話休題。上の19世紀の「墨流し模様」は、確かに抽象的パターンともいうべきもので、間違いなく現代の抽象表現絵画にも通ずるものが認められる。筆者ならさしずめ、ジャクソン・ポロック、サム・フランシス、デ・クーニングあたりが思い浮かぶ。ただし、この時点で熊谷守一と、「トリストラム・シャンディ」との相関関係はうすい、いや無きに等しいと気づくべきだった。
岡崎氏が論の冒頭で「キュビズムと《見えないもの》」で章立てをしていたのだ。
熊谷守一は、漱石の文学・芸術論に精神的な影響をうけている。しかし、守一の作品と、「トリストラム・シャンディ」に挿入された「抽象パターン」にみられる芸術性とは縁も所縁もないだろう。むしろ、老境の域に達した頃の守一の抽象絵画について、キュビズムやフォービズムとの関連を考えるべきだったのだ。
参考までに、ポロック、サム・フランシス、デ・クーニングの作品を転載しておく。
▲ジャクソン・ポロック
▲サム・フランシス ▲デ・クーニング
さてさて。「草枕」の源流になにを見るという本来の目的に立ち返らねばならない。
漱石の初期三部作とは、「猫」、「坊ちゃん」と、この「草枕」。そのいずれもが人気作となり、今日でも読者は多い。ただ、「草枕」は今では、山なし落ちなしのストーリーで、前記二作ほどには読まれていないだろう。西洋及び漢学的教養が求められ、「俳句的、雅趣低徊」と呼ばれほどの、絢爛多彩な表現、豊かな語彙が誇らしげにあらわれる。で、軽佻浮薄な文章がはばを利かす今のご時世にあって、「草枕」はちと敬遠されてはいまいか?
しかし、漱石が認めたように、「トリストラム・シャンディ」の精神、趣向を汲み、「どこで読み始めてどこで中断しても面白い」小説をめざして、漱石自身がかなり集中して書いたといわれている。「猫」を脱稿して10日目に書きはじめ、2週間ほどで書きあげた話は有名だ。
山奥の温泉地という平明な状況設定。緻密なプロットもなしに、絵の題材をもとめて温泉地に来た画工の、人との出会い、自然の風景にふれた時の興趣を書き連ねただけだ。しかし、文章は素晴らしく、あらゆるタイプの名文を賞玩することができる。俳句を読み、味わう、その一句を嚙みしめるように、ときには読み下しの漢詩を朗詠するかのように・・。かとおもえば、シェイクスピアの台詞、ワーズワースの詩などの英国文学と西洋趣味、そのペダンチックな味わいを愉しむときのように・・。あのエヴァレット・ミレーの「オフェーリア」と「ハムレット」の台詞を重ね合わす余裕と素養・・。
▲今から4年前。妻が手術した時に見ていた。ほとんど忘却の彼方だ。
山奥の温泉郷、そこの老舗旅館の出戻りの美しい女主人「那美」、その周辺に住む農民や、寺の坊さん、そして主人公が30歳ほどの青年画家。「草枕」の書き方は、ある意味でスターンの記述を踏襲していて、まさしくメタフィクションの先駆といっていいのかもしれない。という意味において、「草枕」の源流は、ローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」に一つの起源をみとめていいかもしれない。
では、その他の起源はあるのか問われたら、筆者はあると答えたい。
それは幸田露伴への対抗意識である。当時すでに文壇の大御所的な作風と存在感をもち、漢文的教養をバックボーンに江戸由来の伝統文藝にも通じていた幸田露伴である。
漱石とは慶応3年生れの同年齢でありながら、幸田露伴は当時、別格の流行作家として明治の人々に敬意をもって読まれていた。
また、漱石の大親友、正岡子規は一時小説家にならんとして露伴に教えを請うたこともある。そのとき露伴は、簡単な手紙をそえて子規の小説「月の都」を返却した。
後に、子規は露伴の家にいき、小説のなんたるかの話を聞いて感極まったという。「露伴は日本第一等の小説家」だと、子規は認め俳句に専念することになった。
漱石がそのエピソードを知らぬはずはない。
子規が逝去したのが明治35年。「草枕」が世に出たのは明治39年。小説家として世の高い評価を得たばかりの漱石は、好むと好まざるにかかわらず露伴を意識せざるをえなかった。
子規を弔うという意識で「草枕」を書いたはずはない。しかし、子規に駄目だしをした同年輩の幸田露伴を、小説の神様とよばれるこの大作家を、漱石はつねに念頭において執筆したのではないか。
漢詩・漢文はもちろんシェイクスピア、前述の「トリストラム・シャンディ」等の英国伝統の文藝、さらにはラファエル前派、英国世紀末芸術なども彷彿とさせる小説、後年の心理小説を予感させる味わいのある作品を書きあげたのである。
東洋と西洋趣味の混淆とした名文の宝石箱、それが「草枕」である。
お粗末さまでした。
数の言葉ヒフミヨに投影すると、「草枕」は、算数・数学の教科書だ。
ヒフミヨは△回し▢から
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