山極壽一が京都大学の総長になったとき、すこし意外な印象をもった。組織のなかで奔放に仕事ができるような人には見受けられなかったし、定年になったらゴリラ研究の体験を生かした著述や講演活動など自由な道に進むだろうと思っていた。よくよく考えてみれば、ゴリラ研究を通じて人間社会を深く掘りさげるのが彼の学問だ。ボスゴリラをイメージしたかどうか知らないが、組織のボスになることの深い意味、男として頂点に立つことの責任を十分に熟慮した結果、山極壽一は京大の総長という職責を選択したのかもしれない。
彼の著書はまだ2、3冊しか読んでいないが、考え方や人となりはユーチューブで結構見ていて、学ぶべきものが多いし同世代として共感することも多々ある。
さて、先日。京大の入学式での、山極総長の式辞がずいぶんと話題になった。ボブ・ディランの「風に吹かれて」の歌詞が引用されていて、例のJASRAKが著作権についていちゃもんの電話をしたことでニュースになったのだ。どこぞの音楽教室での楽曲使用でも、同じく著作権に関する話題でもち上がっていたが、アメリカに追随するJASRAKの厳しさは近頃目立っている。
▲京都大学のホームペイジより転用させていただいた。
ディランの詩の引用について言えば、違反にあたらない適正な範囲内と思われ、引用の箇所は全体の文脈においてその必然性は揺るぎない。ディラン好きの私だから保証する。まして、ディランが21歳のときに作詞した名曲であり、若い人たちに訴える力はあまりある詩の内容だ。
JASRAK側はその点を咀嚼したのだろうか。京大の入学式はニュースバリューがあるとみて、著作権の侵害を指摘することは有利だと判断したのかもしれない。
それにしても、この話題はその後とんと音沙汰がなくなってしまった。JASRAK側でいささか勇み足だと反省でもしたのか・・。その組織の運営、収支等について自分なりの尺度で調べてみたのだが、ちょっとしたワケあり・疑問点が浮かび上がってきた。これについては別の機会に譲りたい。
それよりも、山極はディランだけでなく、故茨木のり子の「6月」という詩も引用している。この引用に関して触れたメディアが皆無(?)だったのは不思議。
茨木のり子のそれは、戦後まもなく書いた詩だと思われる。どこかぎこちなく固い表現なのだが、戦禍をくぐり抜けて来、明日を生きることに向かう、そのたくましさと自由の歓びが伝わってくる。たった12行ほどの詩、たぶん全体の一部分であろうが、若い頃の茨木らしさが充満している。以下は山極が引用した、そのまた引用である。
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろをした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる
山極はこう述べる。「学徒出陣に参加した学生たちは自分たちの意思ではなく、上の世代の決定によって戦争に駆り出されていたのです。今、皆さんは自分の置かれている環境に対し、その是非について、その政治的判断について、自ら票を投じて参加できるようになったのです。それをぜひ、心に留めていただきたいと思います。」
「自分がもっとも美しかった青春時代を、戦時中の学徒動員と敗戦のがれきのなかで過ごした」女性詩人の魂の叫びと覚悟のすごさ、自由な社会で生きていくことの大切さ、それを守ってゆく力強い決意を若い人たちに伝えたかったのであろう。
大学の入学式などの式辞について、私の記憶はまったく喪失している。心に残る名作などを引用しながら、意義深い文章に練り上げる。それが大学の学長の式辞だったとしたら、私は何をしていたのか・・。
いやいや、1969年の私のそれは・・、入学式そのものがあったのかも思い出せない。なんとも恥かしい、そして秩序なき社会であり私であったのか・・無念だ。
最後に、私としては、山極ならではの専門、ゴリラ社会から学ぶべきこと、或いはアフリカの密林で過ごした濃密な体験、エピソードを盛り込んだ式辞の方が面白かったと考える。少々型破りぐらいの方が、若い人たちの共感を呼んだのではと訝ってしまった。
まあ、今回の入学式の式辞は、山極壽一らしい新たな面も見せていただいた。それもまた、良しとして筆をおくことにする。