枝映えて 寂寥の空 いてふ立つ (※1)
散歩にいけば必ず見に行く。可笑しな表現だが、信頼している大銀杏。要するに、大好きな樹木だ。私にとってのメルクマールであり、留めおく記憶の定点観測の地でもある。
ほんの2,3週間前まで、あざやかな黄葉で目を愉しませてくれていた。今はもう、すっかり落葉して枝ばかりになってしまった。よくよく見れば、葉脈のようにきめ細かく枝が張ってい、それだからこその複雑系が大樹の威容を魅せているのだなと、じーんと思った。
この銀杏(いてふ)の実、ぎんなんはかつて上野公園を住処とする人々のためのものだった。彼らは半強制的にちりちりに追いやられた。
そう、牛乳パック半分ほどの分量の、銀杏の実を売れるように手を入れ、商品としてビニール袋に詰める彼らの生活力に舌をまいた。彼らが消えてから、拾う人が少なくなり、その実はまだ拾い残され、酸っぱく臭い独特の匂いは周囲に漂う。
なぜか、日本の活力そのものが減退している気がして、なぜか寂寥感を感じてしかたがなかった。
まあ、気のせいなのだし、明くる年の新緑の季節をむかえれば、青々としたグリーンの葉が茂って芳醇な樹の香りを放つだろう。
下の写真は、2週間ほど前の大銀杏、まだ自然のあざやかな黄色が残っている(画質が悪いから、発色悪い。エクスキューズ丸出し)。
ともかく、葉っぱそのものが生存し、色彩を残している。そこを多少評価していただきたい。
ともあれ温暖化に負けない古里はあるのだ。と、感傷と義憤が混じりあう、不思議な感慨にふける一日であった。
▲新緑から黄葉まで季節の色をたっぷりと魅せてくれる大銀杏。12月の初め、年賀状のロケハンに行った。
(※1):よく吟味すると季語がない。素人がひねりだした俳句まがいとして、恥ずかしいがそのままにしておく。上五を「冬の枝」に換えても、無理な話で、自分が感じた詩情をそこなう。どなたかの先生に教えを乞うべきなのか・・。ご近所にいるんですが、・・迷うところだ。