小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

黄落の果てに

2018年12月18日 | 日記


枝映えて 寂寥の空 いてふ立つ (※1)


 

散歩にいけば必ず見に行く。可笑しな表現だが、信頼している大銀杏。要するに、大好きな樹木だ。私にとってのメルクマールであり、留めおく記憶の定点観測の地でもある。

ほんの2,3週間前まで、あざやかな黄葉で目を愉しませてくれていた。今はもう、すっかり落葉して枝ばかりになってしまった。よくよく見れば、葉脈のようにきめ細かく枝が張ってい、それだからこその複雑系が大樹の威容を魅せているのだなと、じーんと思った。

この銀杏(いてふ)の実、ぎんなんはかつて上野公園を住処とする人々のためのものだった。彼らは半強制的にちりちりに追いやられた。

そう、牛乳パック半分ほどの分量の、銀杏の実を売れるように手を入れ、商品としてビニール袋に詰める彼らの生活力に舌をまいた。彼らが消えてから、拾う人が少なくなり、その実はまだ拾い残され、酸っぱく臭い独特の匂いは周囲に漂う。

なぜか、日本の活力そのものが減退している気がして、なぜか寂寥感を感じてしかたがなかった。

まあ、気のせいなのだし、明くる年の新緑の季節をむかえれば、青々としたグリーンの葉が茂って芳醇な樹の香りを放つだろう。

 

下の写真は、2週間ほど前の大銀杏、まだ自然のあざやかな黄色が残っている(画質が悪いから、発色悪い。エクスキューズ丸出し)。

ともかく、葉っぱそのものが生存し、色彩を残している。そこを多少評価していただきたい。

ともあれ温暖化に負けない古里はあるのだ。と、感傷と義憤が混じりあう、不思議な感慨にふける一日であった。

 

 

 

 

▲新緑から黄葉まで季節の色をたっぷりと魅せてくれる大銀杏。12月の初め、年賀状のロケハンに行った。


(※1):よく吟味すると季語がない。素人がひねりだした俳句まがいとして、恥ずかしいがそのままにしておく。上五を「冬の枝」に換えても、無理な話で、自分が感じた詩情をそこなう。どなたかの先生に教えを乞うべきなのか・・。ご近所にいるんですが、・・迷うところだ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。