日曜日、借りた本を返しに図書館へ行ったら、大きな声で文句をいう老人がいた。あれをこうして、こうすればスムーズにいく。何かが駄目で、あれは無駄だろ、なんたらかんたら。貸出係の人はひたすら謝るばかり。老人の前で並んでいる女性は、頭ごなしに罵声が聞こえるはずで、見るからに迷惑そうな顔をしていた。
嫌なものを見てしまったなと思った。いわゆる「老害」とは、こういうことを指すのかもしれない。静かな図書館で大声をはりあげる老人は、日曜日にしてはきちんとした身なりをしていて、背も高く威風堂々とした雰囲気を漂わせていた。
よほどの事情がないかぎり、人は声を荒げて話さない。まして図書館という公共の場で、自分の都合を優先させて大声をだすのはみっともない。故意の怠慢や不誠実ならいざ知らず、係員たちは当たり前の業務を普段通りにこなしていたのだ。
以前、コンビニでいざこざを起こしている老人もいた。一杯100円の珈琲が出ないの機械がおかしいだの、中国人らしき店員はうまく対応ができず右往左往。見かねた同じ年恰好の老人が割って入った。今度はその老人との間で雲行きが怪しくなり、表に出ろ出ないと言いながら店を出ていった。このときも日曜日か土曜日で、店内が混雑していてレジには人が並んでいた。
これもまあ、一種の「老害」といえなくもない。いまや全人口に占める老人の割合が三分の一以上になったのだから、様々な問題が表面化する確率も増える。とうぜん、老人が関わる社会的な諸問題も増加することになる。
それにしてもである。「老害」なるものが、今後さらに増えるとしたら、他人様に迷惑をかけまいと、ひたすら大人しく生きようとしている(私のような)高齢者はどうなるのか。もっと肩身の狭い、いやな思いばかりするのではと、明日の生活は暗くて切ない、やるせない。
そこで「老害」なる実態がいかなるものか、ネットで検索してみたらあるは、出るは・・。具体的な事例・体験談・呪詛に満ちたつぶやき、対処方法などが、これでもかというように開陳されている。で、私なりに大雑把にまとめてみると、「老害」なるものをまき散らす人には、際立った特徴やイメージが抽出できた。残念ながらこの私にも認められるケースもあり、自戒しなければと謙虚に思う。(※追記)
その特徴とは。
- 価値観を押しつける
- 上から目線で強圧的
- 些細な事にすぐ怒る
- 理不尽かつ都合優先
- 自分の非を認めない
- 自信家で協調性なし
そのイメージとは。
- ふだん人づきあいがなく孤独な雰囲気
- 短気でせっかち、その割に話がくどい
- 何かに怒っていてクレームをつけたい
- 若いですねと世辞をいっても喜ばない
- 高齢者であることを利用しようと狡猾
大きくまとめると、社会的地位と仕事での成功体験をもち、そこから得られた自信に満ちた人か、その真逆というか社会への不平・不満あるいはルサンチマンを抱く人、そのどちらか極端な人が「老害」を印象づける傾向がありそうなのだ。端的にいえば、リッチな層と底辺層に分断され、かつ偏在しているという傾向が明らかである。
スティーブン・ピンカーのように「心の仕組み」を機能・構造論的に分析したらどういえるか。
高齢化することで社会的役割が減衰したという客観的な位置づけは、避けることのできない課題であり、当事者の誰もがそれを意識化して次なるステージを模索するべきだ。
社会の人間関係における自己相対化ができない、としたらそれはもう、自己コントロールを放棄したに等しい宣言だろう。もし、苛立ちや焦りみたいな感情をいつも抱えていると、自己分析ができたならば、日常的に認知的不協和が行われている。そのように考えた方が、気楽に構えられる。
情動的なふるまいというのは、自分は若くエネルギーに満ちていることを自慢したい、その裏返しの証明でもある。「老い」を受け入れ、よく生きるためには、「死」に対峙しながらも不断の内省が求められる。「老いること」の厳しさから逃避しても、より良い結果は得られないと諦めるべきではないか。心身の健康とバランスは、老いも若きも関係ないだろう。
『論語』は私にとって枕頭の書であるが、「心」の問題をつねに自分なりに考えさせる切迫力をもつ。つまり「生老病死」を超えたところに、「心」の在り方が問われるものと理解している。
白川静か安冨歩だったか、孔子が生きていた時代には「心」という漢字はまだ浸透していなかったという。つまり「心」がつく漢字、「思」「志」「快」「怒」「忌」「惑」などはなかった。もちろんこれらの概念はあったのだが、実際には身体に関わる言葉を使って表現されていたと、現在では考えられている。
「老害」とはだいぶ離れてきてしまった。そして抽象化し過ぎた。もちろん『論語』と「老害」は大いに関連するのだが、長くなりそうなので稿を改めて考えてみたい。
▲4月1日に撮影。エイプリルフールの記事が書けなかった。下の写真も同様。
▲シャクナゲは「石楠花」あるいは「石南花」と書く。「高嶺の花」だという。花言葉には「警戒・危険・威厳・荘厳」の意味があるそうだ。けっこう難しい花だ。
その老紳士、その時、本当に心底から親切心で、そのように怒鳴ったのだろうか... (・・?)
或いは、日頃のストレス解消 ~(・・?))
K 子の母は、その老紳士を【 家庭でも昔ながらの亭主関白だろう! 】という感想ですが、私の感想は、【 家庭では、 普段、奥方様に牛耳られている反動だろう! 】なんです (笑)
「怒り心頭に発す」という慣用句や、「怒髪天を衝く」など、怒りという感情が嵩じると、頭に血がのぼるのは、昔からありました。かくいう私もごく稀に、そんな状態になることがあります。
原さんの分析では 「家庭では、 普段、奥方様に牛耳られている反動」とのことですが、家庭を牛耳られることは円満の秘訣だと考えますが、そんな私でも、時にカッと来るのは不思議で、そのメカニズムは解明できませんね。
歳を重ねるほどに穏和になり、物事を達観して捉えられる。それは理想なのですが、なかなかどうして。
世の中の不穏が多くなったのか・・。高齢者の若年化が起きているのか・・。怒りの感情の出口が見つからないのか・・。
江戸時代には、壮年のうちから趣味をもつことが推奨されていましたね。それがよりよく生きることの第一歩だとされていた。ブログなんか書いていないで、もっと粋な趣味を見つけようと模索する日々、それが現状というところですか。
ただ……当たり前の話、高齢者人口がどんどん増えているのですから、
分母が拡大しただけ、多数派であるだけに、目立つ人も増える。
相対的に老害と言われる人々が、本当に高齢者に顕著な傾向であるのか私は疑問に想うのですね。自分が初老だからおもねる話をしているのではなく。そりゃあ数が増えればおかしな人も増えるさと。
どうも老害Wordは、不満層のガス抜きに拡められた気がする。
おそらくは池袋で母子を含む多数を轢き殺し殺害しながら、あくまで無罪を主張していた元官僚の事件から流布されるようになったようおもえるのですが。統計の裏付けもなく言われましてもねぇ。
これを書いた動機は、記事で書いたことを実際に見たんです。で、彼らの年恰好が、「団塊の世代」だろうと決めつけたんですね。
なんの根拠もなしに、確かめもせずに・・。ひどい話でしょ。
でもね、私には子供の頃から、年上の、1,2,3年先輩の彼らをあまり好意的に見ることはできませんでした。イヤーな思い出がたくさんあります。
つまり彼らは「団塊の世代」なんです。お前もそうじゃないか、いえ、昭和25年からは違うのです。
彼らは1年で250万人以上生まれた多人口世代です。
実に競争意識、成り上がり、弱者(後輩)蹴落とし指向がもの凄い。
そう、彼らに私はルサンチマンを抱いております。
若いころに思いましたね、彼らは老人になっても、戦いをやめず、他人の迷惑を顧みず、わがもの顔でのさばり続けるだろうと・・。
以上、偏見と鬱屈、恨み、妬みがしみ込んだ非常識な見解を吐露しました。
で、あるときに、「老害」という言葉が飛び込んできました。ああ、彼らの仕業だ、あいつらの悪行だと・・。
ネットで調べてみたら、いろいろと「老害」にまつわるネタが盛りだくさんでした。
で、この記事ですよ、わが恥ずかしきルサンチマンを包み、統計の裏付けもなく、やってはいけない心象操作で書いたんですね。
以上、半分は冗談ですよ。
お世話になったり、助けてくれた素晴らしい先輩たちも沢山いましたから。
過剰反応することはありませんが、「老害」とは嫌なことばですが、ハラスメントよりも心に刺さる言葉です。その分、自省を促すんじゃないでしょうか。
若年世代からというよりも、全世代からの警告のメッセージとして受けとめる度量をもつ。それが老いへのベターな準備だと、私は思っています。
学生運動なども後の世代からしたら、ツケを押し付けられた(管理体制が強化された)感がありますからね。すぐ下の世代の方ならなおさら恨みはあるでしょう。