以前ほどのモチベーションをもたないけれど、俳句づくりは細々と続けている。芭蕉にしろ子規にしても、一日で何百、何千句を詠むときがあったそうだ。対象を観る目は研ぎ澄まされ、詠むべき言葉が奔流のように湧き出て、それはもう常人とは思えない感興の人であったろう。自分の周囲すべてが異次元だと思われるほど、冴えたやり方でしか俳句はひねり出せないと思う。
小生、俳句同人誌に辛うじて参加させていただいている。そのお陰でなんとか、毎月5句だけは作句ができている。これぐらいはなんとか続けていけたらと願う、というか止めたら自分が落ちてゆく感じがある。たまにどなたかが選句として推薦してくれるときがある。それは確かに励みになるとはいえ、そうでなくとも、俳句の世界に浸る愉しみをもっと探ってゆかねばならぬ。
近ごろ作句をブログに載せていなかった。こんな心境になるのも妙なことだ。拙句とはいえ、自分なりの工夫とか詠んでみたときの心境をコメント風に書き残しておきたい。最新のものから一か月ごとに古くなっていく順に記載する。
(6月)
梅雨空や見えない檻の中にゐる
古寺の甍のしずく半夏雨や
家亀の甲羅にやすむ蠅光る
名を忘る多肉の花の極彩よ
タケシ逝くギターテケテケ霹靂(はたた)神
このコロナ禍でほとんど遠出をしないし、家にいることが多い。そんな状態はまるで「檻の中」にいるのと同じだと思えてきた。それも目に見えない「檻」なので始末におえない。しかも、梅雨だから仕方がないけれど天候はすぐれず、さすがに気分は落ち込む。
古寺の「甍」は最初、「瓦」であった。字面が軽くて響きが悪い。季語に「半夏生」というものがあり使いたかったが、もっと調べてみたら「半夏雨」もあった(梅雨とは違うが、良しとした)。
家にいる赤耳亀(ミシシッピ亀)は31歳になり、いまだに元気だ。体調は30㎝もあり、メスだが堂々としている。出産というか無精卵は毎年産んでいるが、今年はまだだ。最近、夏になると庭の一角に放ち、自分から水場に入れるようにしてあげた。亀の臭いに引きつけられるのか、蝿がよく飛んでくる。その時の光景を詠んだ。
多肉植物は好きなのだが、名前はなかなか覚えられない。ほとんどが外来種で覚えきれないが、和名にしたら多少記憶に残りやすいと思う・・。
最近、エレキギターの草分け、寺内たけしさんが逝去された。自分はほとんど聴くことはなかったが、母は生前に彼のファンクラブに入っていたらしく、寝たきりになってから、定期的に会報誌が届けられることを知った。
最初、「夏の空」という当たり前の季語を使っていたが、何とも軽いので別の何かを探していた。夏井いつきの『絶滅危急季語辞典』をひもといていたら「はたた神」を見つけた。「雷」の副題で「鳴り轟く激しい雷」の意とあり、詠んだ前日にはちょうど雷もなるほどの強い雨が降った。エレキギターの連想としても面白く、「はたた」は、「青天の霹靂」の字を当てるとのこと。こんな絶好の機会はないと思い、絶滅危急季語を使わせていただいた。
母はたいへんミーハーであった。カーペンターズを聴きに武道館にも行ったし、小生よりも先にソウルの帝王ジェームス・ブラウンにも行った。トム・ジョーンズなど外国の大御所がくると目がなかった。ミロのヴィーナスも行っていた。その血を継いでいるのか、自分もけっこうミーハーなところがあると自認している。
こんな調子で書いていると、長くなってしまう。5月以前のものは掲載するだけに留めたい。
(5月)
五月雨や接種待つ身の日もすがら
夏草や思案めぐらし握り飯
老ひてなを陸奥あゆむ夏の夢
紫陽花の藍をもとめて彷徨へり
ワクチンを打つて和むや慈雨なれば
(4月)
空を斬り軒下に消ゆ初燕
水に映ゑ幻めくや藤房は
新緑の坂のぼりつめ息弾む
惜春や顔すすぐ水有難き
二十年住みたる家の衣更へ
(3月)
揺れてゐる紅き蕾や東風吹かば
仰ぎみる木々それぞれに春日向
木の芽吹き憂き人々の心地浮き
手をつなぐ園児らのごと水仙や
花の路地たこ焼突つく二人かな
本稿とまったく関係ないが載せてみる。アメリカ人の日本画家の家の前に置いてある、木製のベンチが可愛い。