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「絆は傷を含む」 @奥田知志牧師の 本物の言葉


先日 北九州市でホームレスの支援活動をしている牧師の奥多知志さんが、講演のため来沢され、お話を聞きに行きました。

 3.11後、日本中に「言葉」があふれ、そのナンバー1は「絆」だけど、奥田氏は、ホームレス支援や東日本大震災の被災者支援の自らの経験から「絆は傷を内包する。その相手の傷を自らも負ってはじめて絆になる」と話されました。自省させられる言葉です。 


 会場で買った同氏の本には、こんなことも書いてありました。

 児童養護施設にランドセルを贈るタイガーマスクが、匿名で宅急便で送るのは、「自分はその傷を負いたくないから」ではないだろうか。実際にランドセルを贈られた側は、「こんな黒色のランドセルはいやだ~」という子どももいるだろうし、そもそも児童養護施設には措置費でランドセル代が含まれているから、ランドセルのない児童養護施設の子どもは存在しない。

 誤解を恐れずに言えば、自己責任自体は大事だ。自己責任は大事だが、ならば「自己責任を取れる社会をつくりましょうよ」ということ。今の社会は無責任社会になってしまったので、結果、自己責任を取れない社会になった。自己責任を追及している社会が、自己責任が取れなくしている元凶でありお言う矛盾した事態になっている。そうなった原因は、政治や経済の問題もあるが、自分たち自身の内側に人と関わって傷つきたくない、というおもいがあるからではないだろうか。

 自己責任社会は 私たちから「助け手」という大切な言葉を奪ってしまった。私たちは自己責任社会の中で、また一方的で穂上に薄っぺらな「絆論」の中で、自分に都合のいい「絆」を持とうとしてきた。人の傷を負おうとしてこなかった。苦しむ人が助けてくれと言い寄ってきても「それは自己責任だ」と言い放ってきた。

 人は変わる。でも「変わらなくても生きてゆく」という現実も肯定したほうがいい。支援者が「人は変わる」という視点のみに立って活動すると、いずれ「この人は変わらなければならない」「この人を変えてみせる」という歪んだ穴に埋没してしまう。

 絆ってなんでしょうか。「もらいもの(支援物資)だけで2ケ月も食べていると、ありがたいけどつらい」。支える側と支えられる側、支援する側と支援される側が固定化すると、人間は元気がなくなる。相互に多重に支援してゆこうよ。

 大学などの研究者ではなく、現場の実践者の自らの体験・実践に基づく言葉って 本物ですね。  

↓これです

   

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