秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

冬の風景 夜話

2009年12月04日 | Weblog
冬の夜長に無いようでありそうで戦前のおはなしを紹介しよう。


八坂義矩著  赤旗異変から抜粋


古い話であるが、昭和11年の初夏のこと、当時の徳島新聞では旧家の奥深く
秘められている家宝を一堂に集めて展示会を企画した。
私は阿佐家の赤旗を借り出してくることを担当せしめられた、というのも愚妻が
阿佐弘之氏の妹であるので私の顔を立ててくれるという儚い思いであった。

阿佐家の広間で対談二時間あまり、当主と膝談判であったがなかなか宜しいとは
云ってくれず難渋したが粘りに粘った結果、弘之氏も遂に兜を脱いだ。

「大旗は駄目ですが、小旗なら外に出してもよろしいですが、いままで外に出した
ことがありません。外に出すと良くないことが起こる心配がありますからな」と
云うので、私は「そんな馬鹿なことを、それは迷信の類です」と云って小旗を借り
出すことに成功して展示会は大盛況であった。

愚妻の母はあのような単調な山暮らしであるので毎年春と秋の気候のいい時期に
徳島市に出てきて娘や孫の顔を見て一ヶ月くらい居て山に帰るのが常であった。

展示会から一年後の5月末、何時ものように徳島市から山に帰る母を駅に見送って
元気に帰っていったのだが、私たちはそれから3,4日後に母の訃報に接しようとは
夢にも思わなかった。
このとき私の胸の底にあのときの「御旗を外に出すと不吉なことが起こるというが」
と云った義兄の言葉が思い浮かんだ。
しかしそんな馬鹿なことが起こるものか、一度は死なねば為らぬ命、偶然の一致だ
決して母の死と旗とは関係ないものだと自問自答して自分の心を慰めている。

それからまだ話はある母の死後、妻はそのショックで強度の神経衰弱になってしまった
身の回りのことや何やかやで家政婦を雇い病院通いは人力車、薄給の身では忽ち経済的に
困窮してしまった。

軍国主義華やかな時代、病弱の妻を気遣いながら従軍を命じられて南方を点々としたが
幸いにも半年ほどで帰ってきたときには妻は大分良くなっていてありがたかったものである。
赤旗を借りたばっかりに、母は亡くなったのであろうか?また妻が病気になったのか?
私は今でも否定しているが、何か割り切れないものが、15年後のいまも残っているのは
事実である。

発行者 祖谷刊行会、徳島県文化財専門委員会  書物 「祖谷」昭和31年発行より。





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