秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

菜菜子の気ままにエッセイ〈親父と昭和とベニア板・最終回〉

2011年12月13日 | Weblog
おんぼろ食堂の名前は、
〈みすじ〉
店の看板は、父の手作り。縦30センチ横に90センチ、厚さは3センチ位程の、一枚の板
焦げ茶色に、塗った板の上から、ペンキで、〈みすじ〉と書いてあった。文字の色は思い出せない。

亡くなるまでの、八年間は、父は 大好きな料理を作り、家族の中心の、ど真ん中で、豪快に愉快な、毎日を過ごした。

店の由来の意味を、私が知ったのは、私が大人になってから、母に教えてもらった。

『三味線の三本の糸』それが、みすじの名前の由来だった。

父の焼鳥は、お客さんには、大評判だった。毎日、毎日、
焼鳥を串にさしていく、父の横顔を、私は1番近くで見ていた。
焼鳥のタレも、絶品だった。
タレを作る、父の姿を、やっぱりくっついて見ていた。そして、時々、お手伝いをした。
幼少期に見ていただけなのに、
大人になった私は、父の焼鳥を再現できていた。
父の秘伝のタレ。門外不出のタレ。

気がつけば、何を作っても、父と同じ味になっている。

父が私に遺したものは、
手垢だらけの愛情と、数々の教訓と…〈秘伝のタレ〉
そして…鼻の形っ

父と母の口から、
他人の悪口だけは、聞いた記憶がない

そして、誰かに何かをしてあげたとか、
そんな恩着せがましい話も、聞いた事がない。

『風邪で寝ていたら、おっちゃんが、鍋焼きうどん作って持ってきてくれた~あの味は、忘れんわ』
『子供が家で留守番してたら、おばちゃんがうどん作って、食べさせてくれとった。世話になったんよ~』

どの話しも、最近になって、聞いた話だった。
父も母も
思いやりを隠し味にして、
記憶に残る味を、誰ものココロに遺している。
父と母が並んで写っている、数枚の写真が
遺っている。
おんぼろ食堂の前で、父は腕を組み、白い割烹着姿の母は、手を前で合わせ、夫婦は、小さく、てれ笑いしている。

家には、カメラは絶対になかったから、近所の誰かが、写してくれたんだろう。シャッターを押しただろう…
近所の二人の顔が思いあたるが、どちらのカメラなのか、わからない。

写真は、時空を越えて、温もりさえも、遺してくれる。

頭の中に刻んだ、思い出や風景は、褪せないままに、笑い声さえも、呼び覚ましてくれる。
誰かが、遺してくれるから、
『永遠』
が未来へと繋がっていく。
写真…そして心で刻むシャッター。

誰もが、消滅していく『生命』だから
伝える事で、消滅した命は、未来で必ず、再び命の気配を呼び覚まし、魂の轍へと繋がって行く。

私には、まだ終わっていない 父からの宿題がある。

12才の私への、父からの最期の言葉。
『…勉強せ…え…よ…』
振り絞るような声で、父が…そう言った。
私は、泣くのを必死になって我慢して、
『う…ん』
と答えた。

『まだまだ、勉強は終わって ないばいっ!なんば しちょる!』
そう言って、叱られるような気がする。

いつか…
父ちゃんに似た
孫を抱ける日が くるのかな…?
なんか…無理かもしれないけれど…
鼻だけは 似てほしくない…

父ちゃんは 気付いていたのだろうか?
宴会に来てた、おばちゃん達が 店に入ってすぐに 言っていた挨拶…

『こんばんは~今日はみすじに花見にきたんぞよ~~』


みすじに
鼻見に来て下さった
あの時代の お客様
ありがとうございました。
肝心の子供達は8年間で
焼鳥は 数本しか 食べられなかったのでした。殆ど 記憶にありません。
お客様が帰った後、お皿に残された、タレを指でナメていた、オカッパ頭 眉毛の上で パッツン~女の子!

オカッパ頭は
前髪命のメンドイ・オバサンになりました。オカッパ頭は、まだ金毘羅さんも 赤い靴も
一人で 歌えます

親父と昭和とベニア板
明日は命日

平成からの合掌