秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

奥祖谷冬点描  暮らしの冬風景

2011年12月17日 | Weblog

山さとは今よりさ雪ふりけるに行き交ふひとの苦労も多し

久保のさとひとり老女の住みけるに引き水凍りて山を下りしか

星のふる画星のさとに雪ふりし冬をこもれる翁はさびしき

久保のさと老女鍬持てだいこんに土かぶりをり雪に備へて

凍雲の居座りをりし祖谷の里

里道も失せて久しや枯れ茨

枯れ蔓の屋根這ふ庵を主知らず



良寛は難しい、ぼんやりしていて、何でも子供の云うことを聞いている良寛の
イメージからは、想像も出来ないほど、自分の生活の隅々まで良く判って
鋭い人間の洞察と生活感覚を備えたのが、良寛なのではと思われます。

出家して隠遁生活を送り、各地を孤独に放浪し、托鉢に明け暮れながら道元の
教えに学ぼうと、道元の教えに傾倒しても馴染めず、詩文に向いていると考え
老荘思想に傾きながらもそれを越えるべき、良寛は自分を詩人のように鍛えた
のでしょうか。

良寛を包んでいた思想は荘子の自然思想で「無為の良さ」でしょうか
制度から離脱、道徳から離脱を試み、道元禅、荘子からも離れた場所に
孤独に自分を置き凝視しながら後半生を詩歌人として生きることになる。

良寛は農村共同体に庵を結び、僧侶として托鉢をして生活を、長歌、和歌を
詠んだ、良寛は自然に囲まれ、自然の生活から生まれる感性に導かれてその
感性を自然のなかに移しいれる日常生活を詠んだのではないかと思われます。

その長歌、和歌に病苦の歌が多くあり、自然の生活、日常生活から来る人間の
苦しみまたは庶民の苦を無意識のうちに表現したのかも知れません、それまで
詩歌は花鳥風月の詩歌が普通であり、良寛まで労苦を詩にすることはなかった
ように思われます。

いずれにしても今までの花鳥風月から遠く離れた詩歌は、近代の、特に明治の
漱石、子規、左千夫、茂吉、他の歌人、詩人、作家に多大の影響を与えることになります。

近いところでは、俳人 山頭火がそうであろうか、山頭火は生活を前書きにして句作したと
云ってるが、日常生活の隅々まで孤独に、凝視しながら、人間苦、社会苦や病苦を鋭い
生活感覚を持って、自然の中に感性豊かに移し込んでいると思われます。

生活感性の自在さやすべてのものから解放されて、詩歌を通して自然のなかに
良寛自身を溶かし込んでいく感性は、自身の生活に厳しく、鋭敏な人間洞察や
自然洞察に裏打ちされたものではないかと思われます。

近藤万丈『寝覚めの友』に土佐の良寛についての記述があり
「土佐を旅していた時、雨宿りに庵を見つけた、招き入れてくれた僧は痩せこけ
青白い顔をして最初に一言いっただけで話しかけても笑うばかりでものをいわない
夜更けまで向かい合っていたが僧なのに座禅も念仏もしない。

「こいつは尋常ではないなと思った」翌日、目が覚めると僧も炉端で寝入っていた
その日も雨でもう一日宿を借りたいと云うと何日でもと言って麦焦がしを食した
部屋の中には木仏が一体、『荘子』が二冊あるばかり、本の間に挟んであった
草書が見事だったので書いて欲しいと頼むと応じてくれて「越州の産 了寛書す」とあった」

そこにはあのひとのいい、ぼんやりとして、托鉢をして夕食の工面すらも忘れて囃したてる
子供と時を忘れて遊ぶ良寛の姿は、どこにもない、厳しく孤独な姿が浮かび上がってきます。

一方では極貧のなかにありながら農村の日常の生活で仏教の説法座禅をするでなく
知識を与えるでもなくもっぱら行乞し人の家に厄介になると黙って竈の火を起こし
水を汲み、子守をしたりと人々の生活の中にとけ込んでいたに過ぎない良寛がいる
そして人々から慕われ、相談を受けたりされている。

いま、自然のなかの一生物である人間が、自然のなかから浮き上がってしまって
空回りばかりしている現状にあまりにも生活感性の欠如、自然洞察の無さに
あるのかも知れないと思われます。

良寛の誕生から250年余りの時を経たいま、良寛の時代とはかけ離れた世界に住む
僕らではあるがいかに変わろうとも、ひとは自然のなかの一生物に変わりは無いし
いま、自然破壊の最中に生きる僕らは良寛の心に導かれて自然に生きる智慧を
学びたいと思う、改めて良寛は非常に難しいが、丁寧に検証して少しでも理解したい
ものと思います。
















テラオ兄さん携帯写真






































コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする