秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

菜菜子の気ままにエッセイ (お盆に思う独り言)

2012年08月14日 | Weblog
今年も集落で初盆を迎えられた、仏様がいた。
毎年毎年、集落から人が、いなくなる。
去年、この場所で、一緒に送り火に列んだおっちゃんも
今年はお位牌に姿を、変えた。

ずっと 思うことがある。
宗教感に至っても、図太な素人のワタシだけど、単純に疑問に、思うことがある。

主人が逝ってから もうすぐ六年がくる。
毎日、毎日、お茶とお水とお線香をあげ、
月に何度か、お墓参りをして、
年に数回、ご先祖様のお墓の掃除をしながら、いつも思うことがある。

《墓》とは
亡きがらを収納する、場所であり、
《墓石》とは
亡きがらを刻んだ少し、高価な方法であり、早い話しが、この世に残る者が
後の子孫に、目印のようなものを、解りやすく、遺しているだけのような、気がする。

天涯孤独な者は、多分、墓石を予約したりしない筈だ。
後に続く子孫がいないのに、墓にこだわる筈はないから。
天涯孤独な、全ての人々が、みんなそうではないにしても、
墓石とは、石材店の目玉商品であり、1番丈夫な、目印なんだ。

その目印に、人間様の《見栄》が付き
墓石は、ゴージャスなものへと、代わって行った。

《震災》
で、全てが流された。
人間、家、車、墓石、地図に存在した 場所。
全てが流れても、人々は、再び
《拝む》
何に対して、
《拝む》のか…
墓石も、位牌も、過去帳も、十字架も、石像も、全て流されても、拝む…

拝むことが 出来る

それは、それぞれに胸の中に持っている、それぞれが信じている、
《想い》や《祈り》
に向けて、拝んでいるのだ。

全ての曖昧を、突き詰めて考えていくと、そこには、答が出る

《無》
だと 言うこと
燃えたり、流れたりして、失くなってしまうものに、執着しても
砂に描いた、絵と同じだと言うこと

人生を、がむしゃらに、生きて、活きて、生き抜いたとしても
一瞬に訪れる死によって、全てが消える。
《善》を重ねた者も、
《非道》を歩いた者も、入る骨壷の大きさは、皆、同じ大きさだ。
そして、歴史に名を残さない限り、存在していた証さえも、曖昧になる。

少し早いけど? 最近のワタシ
(身辺整理)
に励んでおります。
娘達が、後始末に困らないように
なるべく、迷惑をかけないで 済むように
スッキリした、空き家になるように

(捨てる)
(棄てる)
ひたすら、捨てる。

本日の祖谷地方
朝から 雨の一日です
少し 肌寒いですよ。

明日は 仕事
やっぱり ポリシーは変わらない

《人生の終焉の時間の中で1番優しい他人》の介護者で在りたい。
《ココロ》
を1番大切に しながら 生きて活きたい。

そんな ことを想う
初盆の 朝でした

次回こそ
修理した?携帯電話でお届け致します

本日 初盆を迎えた
多くの 魂に向け

合 掌



















































コメント
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