楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

今度、やって来たお寺は

2021-08-21 08:57:28 | 日記

またまた、かなり大きいお寺に来ましたよ。

さぁ、入って見ましょう。

ここは、井戸の跡らしいですね。これにまつわるお話もあります。江戸の神田には、毎日70人からの食客があり、角力取(すもうと)り、役者、絵師が寄食していたり、大名、旗本衆に大金を貸したりしていました。そんな長者伝説の遺跡が残る入間川は、歴史の1ページを飾る貴重なところです。むかしのお話です。入間川の綿貫家といえば、東北の本間家、大阪の鴻池(こうのいけ)家とともに、唄にうたわれたほどのお大尽(だいじん)だったそうです。 あるとき、井戸の水をわけてもらいにきた人がおったそうです。すると番頭さんがでてきて
『あー、それはおやすいご用です。わたしの方には四つの井戸がありますが、どの井戸をつかいますか』その井戸といいますのは、一つめは隠居場(いんきょば)のあったところで、現在の図書館の下あたり、二つめは狭山市駅前の八百屋あたり、三つめは綿貫家の墓地(現在は移転しました)のあたり、四つめは徳林寺(とくりんじ)のあたりだったといわれております。 いまさらながら、そのスケールの大きさにはおどろかされたということです。また、ぶっこし【一揆(いっき)】があったとき、綿貫家では、四つの井戸の中に金銀を隠しておき、家財道具は天岑寺に預けて無事だったことから、お礼にと『葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず』という石碑を奉納しました。今も参道の入り口にたっています。

たくさんの幟が立っています。裏へと回ると、

どうやら、ここは観世音堂の様でした。ところで、このお寺は福徳院と称し、福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し、成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し、開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。平成20年には、狭山市駅西口開発のため、綿貫家の墓所が駅前より福徳院不動尊に移転され、現在にいたります。

駅へと向かうと、やって来たのはここ八幡神社でした。狭山市入間川にある八幡神社(入間川)です。八幡神社(入間川)は、新田義貞が鎌倉幕府討伐に際して元弘3年(1333)当地に勧請、新田八幡とも称され、入間川村の鎮守社だったといいます。慶安2年(1649)には八幡宮領五石一斗余、別当を勤めていた成円寺領一石余、及び成円寺境内の鎮守社牛頭天王社(現境内社八雲神社)領三石七斗余の御朱印状を江戸幕府より拝領、明治維新の神仏分離例に際して、成円寺は、八幡神社神職に復職、明治7年村社に列格したといいます。それでは、次へ

正面に見えるのは中央図書館です。ここで、仕入れたお話がありました。

狭山市は、昔、入間川とよばれる宿場町として大変栄えました。そのころ、綿貫様という長者どのがおりました。大きな屋敷には4か所の井戸を持ち、異変のためにたくさんの抜け穴が掘られました。現在の中央図書館前の道を「山下通り」・・・この「山下」は、綿貫家の屋号で、江戸の上野にも「山下」の地名をつくったそうです。入間川を本拠地として、江戸の神田周辺にたくさんの店や蔵、土地を持っていたことから、江戸の綿貫家、北の本間家、大阪の鴻池と、唄にうたわれるほどのお大尽でした。入間川宿から江戸までの道のりでは、一歩たりとも、他人の土地を踏まずに行けたといわれ、綿貫家の台所にある皿や茶碗を全部並べると、家の門から所沢まで続いたともいわれています。また、綿貫家のいろりは、それは大きく、そばに9尺2間の屏風が置かれていたそうです。

ということで、この地の訪問は終わります。