さて、先へと進んで見ましょう。
途中に、個人の家の前ですが、馬頭観音石柱が立っていました。かなり古いもので、字もよく読み取れません。
古い藤の木の切り株です。
小さな赤い鳥居の先に祠もあります。ここは、所沢市北野南にある稲荷神社で、創建年代は定かではありませんが、この周辺の村の始まりと同時に祀られた神社だそうです。由緒によると、当地の小暮孫兵衛が伏見稲荷神社に願って文政7年(1824)に分霊を祀ったといいます。当社はかつて長者峰と呼ばれ、北野の中で一番高い所にあり、碑に「当社はいつのころか五人者がここに入った時に土地の神を祀ったもので、村の始まりと神社を祀り始めたのは一緒であり、この五戸を西内手組と呼んだ」とあります。「稲荷様として正式に祀ったのは、文政七年二月に当地の小暮孫兵衛という人が伏見の稲荷神社に願って分霊を祀った時からである」とありました。また、藤森稲荷の社名は境内に大きな藤が二本あることによる。この藤にかかわる口碑に「昔境内の藤を切る相談を氏子がしていたら突然二〇メートルもの火柱が藤の上に立ったため、以来、この藤は切らない」ということに。社記によると、文政七年分霊の際の伏見稲荷松本築後守による分霊証書があり、内陣には往時のものと思われる「稲荷大明神」と墨書のある金襴地包みの神璽(高さ二五センチメートル)を祀る。社地は明治九年の実測で二一坪であったが、同年隣接する穐本彦十郎が九坪を寄附し、更に昭和五〇年穐本亀太郎が隣接地三六坪を寄進したため、現在六六坪である。本殿は昭和四年に御大典を記念して再建されたものであり、社殿改築記念碑がある。昭和五〇年には境内整備事業を行い、藤棚を新設している。祀職は古くから北野天神社社家の栗原家が務めています。
さらに、少し先を行くと
所沢市山口にある神社で、美園上八雲神社といいます。山口高忠が山口城の規模を拡大して当地を城内庭園に設け(美園上)、山口城の鬼門除けとして天王社を奉祀したといいます。山口城の落城に伴い衰廃したものの、名主小峰善右衛門という人物が再建したといいます。鳥居といい狛犬といい、最近造り直したのでしょうか、新しいもので扁額は墨で書かれた質素なものでした。由緒によると、当社は鎌倉時代に山口城主十二代城主山口平内左衛門尉高治の嫡子高忠が山口城の規模を拡大し、六ツ家川の流れを外堀として堀之内に庭園を設けたので里人は此の辺りを美園上と稱する様になった。茲に城主が素盞嗚尊を奉祀し八雲神社(通称天王様)と尊稱して城の鬼門守護の社とした。其の後天正年間山口城は小田原北條氏の攻むる所となり落城した。当代城主の一子山口平内は北條氏の臣下に入り其の領地も今迄の入間郡多摩郡二郡に跨がる広大な地域を失い僅かに山口北野三ヶ島藤沢を領するに至った。時経るに従い八雲神社を守護する者なく荒廃の一途を辿ったが其の後武蔵野拾数箇村の総代名主小峰善右衛門が当社を再興した。茲に里人の念殊に篤く以来四百余年の間祭祀を催し地域民の幸福と和楽を祈念するに至ったとありました。
つづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます