ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

孤独を畏れる。

2012-09-02 20:26:46 | 生活改善プロジェクト

********** 思いつき。**************

自分はどうしてこんなに「楽しく仕事したい」ということにこだわるのだろう。

楽しい仕事、というのは、自分の能力を発揮しそれが役に立つと認められていると実感できること、だと思っている。

逆に、苦手なことを失敗を繰り返し、反省したり自己嫌悪に陥ったりしながらそれでも苦手でしかない仕事、ほど苦痛なものはない。

 

思うに、私の得意で能力を役立てられる範囲は、とても狭い。しかし、あまり競合相手は居ないようで(要はニッチな市場)そこにハマると、とても楽しく仕事ができる。

そんな状態になると、仕事以外のことをしたくなくなるので、それはそれで厄介なことになるのだが。

まあ、残念なことにニッチな市場を開拓するのはそう容易ではない。

だからあまり需要は無い、故に私は楽しく仕事ができる場面になかなか出会えない、という仕組み。しかし、私の狭い能力のうちの一つに、諦めず挑戦し続ける、というのがあるので、あちらこちらの職場に漂着しては、自分の需要開拓をし続けている。時々は開拓に成功したりするけれど、だいたいは需要と供給のミスマッチ状態に陥る。

 

こんなことを繰り返しているのは、要するに私が自分自身の孤独を自覚していて、

その孤独を畏れているからだと、思い至った。

人間、みんな孤独だということくらいわかっているし、自分だけが深い孤独に居るなんてファンタジーを、さすがに信じてはいない。

ただ、私自身は、自分の抱える孤独を制御することもできず、忘れることも出来ず、

常に仲良くしているくせに、深く畏れているようなのだ。私はいつも隣に居る孤独が怖い。

だから、私は楽しく仕事がしたい。

 

そこで気がついた。

人一倍孤独を制御できず畏れていることそのものが、私の最強の武器になりうる唯一のものなのだと。

これ以上、私を救ってくれる武器はなかったのだ。

そんなことを、今更気づいた、なぜは、夏の終わりの休日の夕方、アイロン掛けをしながら。

欠点は、最強の武器(となりうる。)あとは努力次第。


嵯峨本プロジェクト

2012-09-02 03:06:35 | art

吉祥寺美術館 モジ もじ 文字 展

前哨戦のような展示を竹尾見本帳でみていた。

世の中の人の関心が、少しタイポグラフィに向いて来ているのかもしれない、と何となく感じている。商業印刷の世界だけでも、もう少し、ことばと文字の関係、タイポグラフィの歴史や背景を踏まえた上でのデザインが増えると、日本のグラフィックは必ずもっと美しくなる、と思う。街中に溢れる商業広告が美しくなれば、街の景色ももっと美しくなるだろう。もう少し知的に洗練されると思う。

モジ もじ 文字 展では、「嵯峨本プロジェクト」がどうしても見たかった。

「嵯峨本」

江戸初期に、京都で行われた出版事業。

角倉素庵が本阿弥光悦、俵屋宗達らとともに日本文学の古典を古活字(木活字)で印刷事業の総称およびのその出版物を「嵯峨本」という。京都の嵯峨に本拠地を置き行われたので「嵯峨本」と名付けられている。

本阿弥光悦の書(能書家として有名、その独特な書体は光悦体と呼ばれる)や俵屋宗達(琳派の画家、デザイナーとして活躍)による美麗な料紙や装丁

そして、古活字で組まれた出版物として、画期的なプロジェクトであり、日本の美しい本を代表するものである。(と、ここまでは私のつたない知識と見解)

以下は、印刷博物館HPより拝借

嵯峨本は、京都・嵯峨の地を舞台に刊行されたことからそう呼ばれています。行・草書体の漢字とひらがなよりなり、表紙・料紙・挿絵・装丁に美術的・工芸的意匠がこらされているほか、2字から4字をつなげて作った木活字により印刷されている点が特徴です。光悦らは、これらの活字を用いて、『伊勢物語』や『方丈記』などの古典文学書を中心に印刷、出版を行いました。ここに紹介する嵯峨本『徒然草』もその一つで、鎌倉時代に吉田兼好によって著された随筆の傑作が版本となっています。慶長中頃に刊行されました。

 

 

この、画期的な印刷プロジェクトを、現代に新しく再現しようとしているのが「嵯峨本プロジェクト」

嵯峨本は、いまではもうその版は残存せず、印刷物のみ現存している。

この現存している嵯峨本の古活字で組まれた組版を、デジタルフォントとして再現し組む、というもの。

デジタルフォントを用いて組版を再現したものから、古活字を彫り、組むという組版模型も展示されていた。(その摺はどうにかならないものだろうか、と思ったのだけれど)

 

嵯峨本の活字がデジタルフォントに!

それだけで、私は目の前がキラキラしてしまう。自分には手が届きそうも無いけれど

そういうことをやってみたい、と学生の頃考えたことがある。私が考えたのは、古活字の復刻と、現代フォントを使ってデジタル組版で「今」の嵯峨本を作りたい、というもので、さすがに古活字をそのままデジタルフォント化する、とは思うも寄らなかったのだけれど。

この「嵯峨本プロジェクト」で作られたフォントは、プロトタイプとして一般には後悔しないということだ。

展示会場でみた

文字組 → 連綿体に変換 → 異字に入れ替え

のようなことを組版システムとしてできるらしい。

この先、このプロジェクトがどう進んでいき、何を生み出すのか

ものすごく楽しみであり、必ずこのフォントを利用したいデザイナーからの実用フォント化の要望が出ると思っている。そして、このプロジェクトの作業そのものが、これから生み出される日本語フォントに、多いに影響を与えると思う。

「ことば」というツールなのか媒体なのか、が社会に於いてどういう意味を持つのか

自らに問いかけている人が増えているように思う。話しことばと文字が、お互いにこれから日本語としてどう変化し何を生むのか、じっと見ている気がする。