今日から6月、衣替えの日です。
季節の節目をまた一つ通って、次の季節へと進んでいく感じがします。
衣替えの今日、東京はまだ肌寒いまま、夏は遠くにある感じです。
今年の春は、寒いのか暑いのか、気候が安定しないからか
私もすっかり体調を崩してしまい、周りも風や胃腸の調子の悪い人が多いです。
体調が悪いのであまり運動もできませんが、強張った心と体を温めるのに
家でヨガのポーズをとっています。
ヨガのクラスは、お休み中です。
ヨガの先生が、震災被災地のボランティアへ参加しているのです。
このことを知った時、
そうか、先生も頑張っているのだな、という応援の気持ちと
少し寂しい感情が湧きました。
ここにも「プチ被災者」がいて、ヨガを、先生を必要としているんだけどな…
そんな思いです。
東日本大震災で、東京は直接の甚大な被害は少なく(天井が落ちて亡くなられた方も居ました)
被災地ではありません。
震災のショック、交通や電力の麻痺、関東圏に近い福島での原発事故
などで、不安が大きくなり心理的疲労を感じている方が少なくないように想います。
私自身も震災から1カ月くらいは、精神的に不安でとても疲労が溜まっていました。
そんな時に、「ああ、ヨガで心身をほぐしたい」とよく思ったのです。
でも、ヨガクラスはお休み。とても残念でした。
ああ、今こそ私はヨガでリラックスしたいのに、と。
「置いていかれてしまった」そんな寂しさを感じたのです。
被災地の悲惨な被害の状況を目の当たりにしたヨガの先生が、自分が少しでも役に立てば
と考えて、ボランティアに参加した気持ちはとてもよくわかるのです。
そういう人がいてこそ、ボランティアが成り立つことも。
一方、先生の「いつも」の生徒、も「いつも通り」存在している。
この非常時に、何を優先するか、ということ、それはその人の価値観そのものだと思います。
非常時に、非常なこと、を率先して行う人もいる。
非常時に、いつものこと、を優先させる人もいるのです。
「いつものこと」はいつもそこにある、普通のことです。
私の生活にも、「いつもの普通のこと」震災とはあまり関係ないような、「いつもの仕事」もあります。
私は、震災直後から、その「いつもの普通の仕事」を「普通に」することに、普段以上の心を砕いて丁寧に行うようにしていました。
なぜだか、自分でもよくわかりませんが、そうすることが私の最もすべきこと、のように思えたからです。
私にとって「いつもの仕事」は、
とても大切にするべきこと、そして社会つながっている大事な出入り口として
私が出来るもっとも効果的な社会貢献の手段、でもあると考えていえるのです。
だから、私は「いつも」の仕事を、今優先させる。
非常な時に、はるか遠くを見ようとする人もいますが、自分の足元を見る人もいる。
私は、非常時に自分の身の回りを整えることが、結果的には全体の復興に寄与することだ、と思ったのです。
だからと言って、非常時に非常なところに身を置き活動する人の価値観がおかしいとも思いません。
そういう人がいること、そういう行動方法も、必要なのだと思います。
自分自身にとって、大事なこと、優先することは何なのか、という簡単にして難しい問いを
震災という非常事態は、問いかけているように思います。
そして、人の価値観がそれぞれだということも、平常時より顕わにして突きつけているように感じるのです。
季節の節目をまた一つ通って、次の季節へと進んでいく感じがします。
衣替えの今日、東京はまだ肌寒いまま、夏は遠くにある感じです。
今年の春は、寒いのか暑いのか、気候が安定しないからか
私もすっかり体調を崩してしまい、周りも風や胃腸の調子の悪い人が多いです。
体調が悪いのであまり運動もできませんが、強張った心と体を温めるのに
家でヨガのポーズをとっています。
ヨガのクラスは、お休み中です。
ヨガの先生が、震災被災地のボランティアへ参加しているのです。
このことを知った時、
そうか、先生も頑張っているのだな、という応援の気持ちと
少し寂しい感情が湧きました。
ここにも「プチ被災者」がいて、ヨガを、先生を必要としているんだけどな…
そんな思いです。
東日本大震災で、東京は直接の甚大な被害は少なく(天井が落ちて亡くなられた方も居ました)
被災地ではありません。
震災のショック、交通や電力の麻痺、関東圏に近い福島での原発事故
などで、不安が大きくなり心理的疲労を感じている方が少なくないように想います。
私自身も震災から1カ月くらいは、精神的に不安でとても疲労が溜まっていました。
そんな時に、「ああ、ヨガで心身をほぐしたい」とよく思ったのです。
でも、ヨガクラスはお休み。とても残念でした。
ああ、今こそ私はヨガでリラックスしたいのに、と。
「置いていかれてしまった」そんな寂しさを感じたのです。
被災地の悲惨な被害の状況を目の当たりにしたヨガの先生が、自分が少しでも役に立てば
と考えて、ボランティアに参加した気持ちはとてもよくわかるのです。
そういう人がいてこそ、ボランティアが成り立つことも。
一方、先生の「いつも」の生徒、も「いつも通り」存在している。
この非常時に、何を優先するか、ということ、それはその人の価値観そのものだと思います。
非常時に、非常なこと、を率先して行う人もいる。
非常時に、いつものこと、を優先させる人もいるのです。
「いつものこと」はいつもそこにある、普通のことです。
私の生活にも、「いつもの普通のこと」震災とはあまり関係ないような、「いつもの仕事」もあります。
私は、震災直後から、その「いつもの普通の仕事」を「普通に」することに、普段以上の心を砕いて丁寧に行うようにしていました。
なぜだか、自分でもよくわかりませんが、そうすることが私の最もすべきこと、のように思えたからです。
私にとって「いつもの仕事」は、
とても大切にするべきこと、そして社会つながっている大事な出入り口として
私が出来るもっとも効果的な社会貢献の手段、でもあると考えていえるのです。
だから、私は「いつも」の仕事を、今優先させる。
非常な時に、はるか遠くを見ようとする人もいますが、自分の足元を見る人もいる。
私は、非常時に自分の身の回りを整えることが、結果的には全体の復興に寄与することだ、と思ったのです。
だからと言って、非常時に非常なところに身を置き活動する人の価値観がおかしいとも思いません。
そういう人がいること、そういう行動方法も、必要なのだと思います。
自分自身にとって、大事なこと、優先することは何なのか、という簡単にして難しい問いを
震災という非常事態は、問いかけているように思います。
そして、人の価値観がそれぞれだということも、平常時より顕わにして突きつけているように感じるのです。