注目の裁判の一審で判決が出ました。
東京・千葉・埼玉での殺人事件、木嶋佳苗被告者の裁判です。
私も個人的に、判決の行方に興味を持っていました。
死刑判決が出るかどうか、という点です。
結果的に死刑の判決が出たことに、私は違和感を持ちました。
この事件は発覚時から、センセーショナルに報道されてきましたし、
次々と暴かれる木嶋被告の私生活も好奇の目にさらされました。
この裁判が注目されたのは
その犯罪と被告個人への好奇心からだけではなく
裁判員裁判で死刑が求刑されることが確実視されていたこと
3つの殺人事件とその背景を解き明かす為に、100日という裁判員裁判としては異例に長い期間が設定されたこと
直接的物証が挙げられていないにもかかわらず、死刑かどうかの判断が裁判員に問われること
被告は3つの殺人容疑について、無罪を主張していること
様々な異例が揃った裁判だったからでした。
結局、第一審のさいたま地裁の判決は死刑、となりました。
木嶋被告は控訴しています。
私の、この裁判での死刑判決への違和感は
よく問題視されている一般市民から選ばれる裁判員が死刑を言い渡すことは重すぎる、ということではありません。
裁判員が死刑判決も言い渡す重圧は、今の日本社会に必要な責任分担ではないかと考えます。
法治国家として裁判で犯罪を裁くことで、犯罪を抑止している仕組みを持つ社会に暮らす以上
同じ人間同士で、裁く側裁かれる側になることは避けらないことです。
誰かが裁かなければならないのであれば、その誰かが自分かもしれない、という責任感と緊張感は誰もが持つべきだと思っています。
日本はこれだけ凶悪な犯罪が増えているのですから、誰かが取り締まってくれるはず、
誰かが社会を、自分を守ってくれるはず、という
なんとなくぼんやりとイメージする「お上」のような権力や権威をもった誰か?を想定する
今やもうそんなのんきな社会ではなくなっていると思います。
私が感じた違和感というのは…
直接的な物証がないにもかかわらず、市民が有罪と判断したことです。
裁判という正式な手続きと、法律に乗っ取った検証がされていたことには違いないのですが
どこか、魔女裁判のような、見えない社会からの空気の圧力のようなものに流されて出た判決のように感じたからです。
この判決は、本当に提出された証拠や証言だけに基づいて、導き出されただろうか?
裁判で争われた証拠は、裁判員が判断の材料とするものとして十分に積み上げられたものだったのだろうか?
疑わしきは被告人に利益に、と教科書で習った裁判の大原則は守られたのだろうか?
いかにも現代社会の歪みを顕わにしたようなこの事件の背景から導かれた犯罪、この種の犯罪を社会は許すまじ、
というとうに失われてしまった道徳規範をより強固に思い出させるための旗印の役目を負わされてはいないだろうか?
そんな疑問がぬぐえないのは、やはり裁判員裁判であったから、だと思うのです。
私も、木嶋被告が裁判で自ら語った生きざまや価値には憎悪を抱きました。
でもそのような感情は、法廷の外で繰り広げられていた下世話な報道や、木嶋被告の姿などから喚起されてることは否めません。
木嶋被告に嫌悪感を感じる、健全な市民である私。
健全な市民である、裁判員の出した、日本の善意のような判決。
もし私が裁判員であっても、この判決を選んだだろうか?この判決を選ぶ道しか用意されていなかったのではないか?
たまたま裁く側に立たされた裁判員の間で、真摯に知的で論理的な議論が交わされて
その結果の致しかたない死刑であり、その結果を出すことに善良な市民が傷ついている、という構図に
どことなく、作られた物語のような分かりやすさを感じます。
抽せんで選ばれることが大原則の裁判員というものは、善良で、知的で、人を裁くことに真剣に向き合う人ばかりなのだろうか?
そんなに、現実の日本社会は健全なのでしょうか?
この裁判に臨んだ裁判員の方々には全く悪感情は持っていません。
ですが、結果を見ると、巧妙に仕組まれた構図が見えるような、誰かが書いた設計図通りに導かれた結果のような
薄気味悪さがじわじわと湧きあがるのをを禁じ得ません。
そんな気味悪さは、どこまで行ってもグレーでしかないことがどこで黒と線引きされたのか、その過程が隠されているからだと思うのです。
市民が判断するという新しい裁判は、そこを暗黙の了解にできない仕組みになりました。
それは社会全体としての市民の成熟度を求められてると思うのですが、今回はその答えが出ていないと感じます。
木嶋被告は控訴したので、控訴審が開かれます。
その際には、捜査で得られた状況証拠のみをどのように判断することで、殺人の立証となり得たのか。
殺人しかあり得ないという判断の論拠は、殺人とは別の被告の素行悪行から類推することによって正解を導き出しているのか。
第一審ではブラックボックスになっている部分を、明快に説明してほしいと思います。
裁判は人が人を裁いているのですから、見えざる手によって操作されているかもしれないという
気味悪さを持っていてはいけないと思います。
できれば、その作業は一般市民である裁判員にしてほしかった、少し残念に思います。
東京・千葉・埼玉での殺人事件、木嶋佳苗被告者の裁判です。
私も個人的に、判決の行方に興味を持っていました。
死刑判決が出るかどうか、という点です。
結果的に死刑の判決が出たことに、私は違和感を持ちました。
この事件は発覚時から、センセーショナルに報道されてきましたし、
次々と暴かれる木嶋被告の私生活も好奇の目にさらされました。
この裁判が注目されたのは
その犯罪と被告個人への好奇心からだけではなく
裁判員裁判で死刑が求刑されることが確実視されていたこと
3つの殺人事件とその背景を解き明かす為に、100日という裁判員裁判としては異例に長い期間が設定されたこと
直接的物証が挙げられていないにもかかわらず、死刑かどうかの判断が裁判員に問われること
被告は3つの殺人容疑について、無罪を主張していること
様々な異例が揃った裁判だったからでした。
結局、第一審のさいたま地裁の判決は死刑、となりました。
木嶋被告は控訴しています。
私の、この裁判での死刑判決への違和感は
よく問題視されている一般市民から選ばれる裁判員が死刑を言い渡すことは重すぎる、ということではありません。
裁判員が死刑判決も言い渡す重圧は、今の日本社会に必要な責任分担ではないかと考えます。
法治国家として裁判で犯罪を裁くことで、犯罪を抑止している仕組みを持つ社会に暮らす以上
同じ人間同士で、裁く側裁かれる側になることは避けらないことです。
誰かが裁かなければならないのであれば、その誰かが自分かもしれない、という責任感と緊張感は誰もが持つべきだと思っています。
日本はこれだけ凶悪な犯罪が増えているのですから、誰かが取り締まってくれるはず、
誰かが社会を、自分を守ってくれるはず、という
なんとなくぼんやりとイメージする「お上」のような権力や権威をもった誰か?を想定する
今やもうそんなのんきな社会ではなくなっていると思います。
私が感じた違和感というのは…
直接的な物証がないにもかかわらず、市民が有罪と判断したことです。
裁判という正式な手続きと、法律に乗っ取った検証がされていたことには違いないのですが
どこか、魔女裁判のような、見えない社会からの空気の圧力のようなものに流されて出た判決のように感じたからです。
この判決は、本当に提出された証拠や証言だけに基づいて、導き出されただろうか?
裁判で争われた証拠は、裁判員が判断の材料とするものとして十分に積み上げられたものだったのだろうか?
疑わしきは被告人に利益に、と教科書で習った裁判の大原則は守られたのだろうか?
いかにも現代社会の歪みを顕わにしたようなこの事件の背景から導かれた犯罪、この種の犯罪を社会は許すまじ、
というとうに失われてしまった道徳規範をより強固に思い出させるための旗印の役目を負わされてはいないだろうか?
そんな疑問がぬぐえないのは、やはり裁判員裁判であったから、だと思うのです。
私も、木嶋被告が裁判で自ら語った生きざまや価値には憎悪を抱きました。
でもそのような感情は、法廷の外で繰り広げられていた下世話な報道や、木嶋被告の姿などから喚起されてることは否めません。
木嶋被告に嫌悪感を感じる、健全な市民である私。
健全な市民である、裁判員の出した、日本の善意のような判決。
もし私が裁判員であっても、この判決を選んだだろうか?この判決を選ぶ道しか用意されていなかったのではないか?
たまたま裁く側に立たされた裁判員の間で、真摯に知的で論理的な議論が交わされて
その結果の致しかたない死刑であり、その結果を出すことに善良な市民が傷ついている、という構図に
どことなく、作られた物語のような分かりやすさを感じます。
抽せんで選ばれることが大原則の裁判員というものは、善良で、知的で、人を裁くことに真剣に向き合う人ばかりなのだろうか?
そんなに、現実の日本社会は健全なのでしょうか?
この裁判に臨んだ裁判員の方々には全く悪感情は持っていません。
ですが、結果を見ると、巧妙に仕組まれた構図が見えるような、誰かが書いた設計図通りに導かれた結果のような
薄気味悪さがじわじわと湧きあがるのをを禁じ得ません。
そんな気味悪さは、どこまで行ってもグレーでしかないことがどこで黒と線引きされたのか、その過程が隠されているからだと思うのです。
市民が判断するという新しい裁判は、そこを暗黙の了解にできない仕組みになりました。
それは社会全体としての市民の成熟度を求められてると思うのですが、今回はその答えが出ていないと感じます。
木嶋被告は控訴したので、控訴審が開かれます。
その際には、捜査で得られた状況証拠のみをどのように判断することで、殺人の立証となり得たのか。
殺人しかあり得ないという判断の論拠は、殺人とは別の被告の素行悪行から類推することによって正解を導き出しているのか。
第一審ではブラックボックスになっている部分を、明快に説明してほしいと思います。
裁判は人が人を裁いているのですから、見えざる手によって操作されているかもしれないという
気味悪さを持っていてはいけないと思います。
できれば、その作業は一般市民である裁判員にしてほしかった、少し残念に思います。
今回の裁判は、やはり魔女裁判だったような気がします。
マスコミがもてはやす事件の結末はいつもこんな終結。
10年ほど前仙台でおきた北稜クリニック事件、マスコミが追いまわし一人の青年が逮捕され死刑の判決となりました。今回と同じに証拠はなく彼が看護師として勤務した日に限って不審なことが起きた そして3人が亡くなったという
事件でした。彼は間違いなく無実だったと思います。今も獄中から無実を叫び続けています。
深夜満天の星空 朝起きたら外が雪景色であったから雪が降ったのは間違いないという極めて文学的表現が決定的になったといわれている今回の事件。
何か共通したおぞましさを感じます。
人が人を裁くということの難しさ。
はたして今の裁判員制度が正なのかどうか。
単にヨーロッパやアメリカのものまねにすぎないのではないのかという疑念がわいてきます。
私の知り合いに裁判員になるべくの通達が来ました。どうみても何かを判断するうえでの最低限の知識も経験もないただのおばさんでした。
それを聞いて空恐ろしくなったのです。
ながながコメント書いちゃいました
毎度ご無沙汰しては、こちらにお運びいただいて、すみません。
心身の体調が安定せず、活動をかなり控えていますが、ここでは、考えたことを言い放ってしまえるので、書いたりしています。
この裁判では、色々な疑問が心の中に湧き起こりました。今の日本社会へ対する、不信感が私の中で大きくなっているように思います。
もしかしたら、それは私のごく個人的な精神状態がひきおこしているのかもしれないのですが。
フランネルさんと、色々なお話をしたいです。
なかなか周囲には、社会に対する自分のスタンスとか考えを、話せる人がいないのです。
もしよかったら見てください。
北稜クリニック筋弛緩剤殺人事件。
私の町の身近に起こっている冤罪事件。
私自身は何の運動をしているわけではないのですが一人でも多くの方にこの事件を思い出してほしい気がします。
起きてはいない事件は、マスコミの狂乱によって作られていきました。その経緯を当時みじかで見ていました。
そして事件は飽きられ私たちの記憶から葬られて行きました。
さあらさんのブログが私の記憶を呼び覚ましました。