隅田川で灯籠流しがありました。
真夏を過ぎた残暑の八月十二日 お盆の迎え火なのですね。
奇しくも八月十五日は終戦の日。
東京大空襲で隅田川に幾重にも焼けた人が折り重なったのだという。
私は、病気柄、年中死に付いて考えている。
ほとんどが自分の死に付いてだが、肉親や家族や恋人や友人や、大切な人の死に付いても考える。
自分が死んだら、私の意識はどこへ行くのか、消えて無くなるのか。
無とは何か。
愛する人が亡くなったときの虚無感はどんな風に襲ってくるのか。
誰かの死によって、私の目に映る日常の景色は変わるのか。
それともほとんど何も変わらない、毎日が続くだけなのか。
そんなことを、いつも考えている。
灯籠流しの灯籠には、自分の名前を書いて川に流してしまった。
自分自身の存在が消えて無くなるのを望んでいるかのように。
いままで生きてきても、自分の生を生き生きと鮮やかに感じた記憶は無いような気がする。
これから、私の命が生き生きと彩りを帯びることはあるのか、無いのか。
そんなことは一生無いという予感が、私の灯籠を流させたのかも知れない。
真夏を過ぎた残暑の八月十二日 お盆の迎え火なのですね。
奇しくも八月十五日は終戦の日。
東京大空襲で隅田川に幾重にも焼けた人が折り重なったのだという。
私は、病気柄、年中死に付いて考えている。
ほとんどが自分の死に付いてだが、肉親や家族や恋人や友人や、大切な人の死に付いても考える。
自分が死んだら、私の意識はどこへ行くのか、消えて無くなるのか。
無とは何か。
愛する人が亡くなったときの虚無感はどんな風に襲ってくるのか。
誰かの死によって、私の目に映る日常の景色は変わるのか。
それともほとんど何も変わらない、毎日が続くだけなのか。
そんなことを、いつも考えている。
灯籠流しの灯籠には、自分の名前を書いて川に流してしまった。
自分自身の存在が消えて無くなるのを望んでいるかのように。
いままで生きてきても、自分の生を生き生きと鮮やかに感じた記憶は無いような気がする。
これから、私の命が生き生きと彩りを帯びることはあるのか、無いのか。
そんなことは一生無いという予感が、私の灯籠を流させたのかも知れない。