
前々回(1/30)の”その1”では、ヤコビの生い立ちから私講師時代までを述べました。
そして前回の”その2”(3/21)では、1827年にケーニヒスベルク大で員外教授となり(23歳)、1832年には正教授に就任する(27歳)所までを述べました。
同年4月、僅か26歳で夭逝したアーベルと共に、ヤコビは互いに火花を散らしながら、楕円関数の研究に没頭します。
若い日のヤコビの心を捉えたこの楕円関数論にては、早速シューマッハーとルジャンドルに成果を報告します(1827年)。
超人ヤコビは、大先輩のルジャンドルですら成し得なかった楕円関数の変換理論に挑むんですが。この証明には第一種楕円積分の逆関数(楕円関数)を諸性質を利用する、アーベルのアイデアが使われていた。
一方でヤコビは、既にガウスの楕円関数研究(等分理論)の事を知ってました。1829年には、クレルレ誌に自身初の著作「楕円関数論の新しい基礎」を刊行します。
ヤコビの若干24歳での、生涯最大の発見こそがこの著作の中の”ヤコビの変換理論”であり、アーベルの「楕円関数研究」と共に、今日の楕円関数論の根底を確立します。
前回までのおさらい〜超人ヤコビの躍動と
ヤコビはルジャンドルから楕円関数論を学び、ガウスから数論を学んだ。ヤコビは、ガウスの円周等分論から出発し、この等分理論こそが楕円関数(変換理論)に繋がったんです。
絶頂期のヤコビはこの夏、憧れのガウスやルジャンドル、フーリエやポアソンらの偉大な数学者とも顔を合わせます。
しかし、ライバルで最大の憧憬を抱いてたアーベルと出会う事はありません。この年の4月に既に他界してたのです。
アーベルの遺志を引き継いだヤコビは、アーベルの加法定理(1828/5)に手がかりを求め、「アーベルの定理に関する観察」(1832)、「アーベル的超越物の一般的考察」(1832)、「アーベル観察ノート」(1846)にて、超楕円積分の逆関数を試み、”ヤコビの逆問題”の原型を提示します。
ヤコビの逆問題とは、第一種楕円積分の逆関数(楕円関数)の探求です。この逆問題はアーベルの加法定理がベースとなってますが、その背後にはヤコビが生み出した変換理論が大きく横たわってました。
故に、等分理論と加法定理と変換理論は楕円関数の3つの柱とされますね。
因みに、アーベルの楕円関数論の目的はヤコビのそれとは少し異なり、逆関数そのものではなく、”特殊等分方程式の代数的可解性の考察”にあり、これこそが結果的に楕円関数の道を大きく切り開いたんです。そして、このアーベルの真意を継承したのがヤコビの逆問題でした。
ヤコビはオイラーやラグランジュやラプラスのような偉大な数学者たちを憧憬し、しかも押し潰されまいと彼らの全体像を把握しようと固く決意しました。
偉大な数学者に学ぶ事のできる人はその人自身もまた偉大です。一般的にその傾向は若い頃から既に現われてるのではないか。
事実、ガウスはオイラーに学んだし、アーベルはオイラーとガウスに学んだ。オイラー、ラグランジュ、ラプラスに学ぼうとしたヤコビもまた偉大でした。
”その2”でも少し述べましたが。そのヤコビも、ケーニヒスベルグ大で初めて一人の天才を間近に見る事になります。天文学者のベッケルです。
ヤコビはこの並はずれた天才と毎日熱中して意見を交換し、自分自身を鍛えていったんですね。リーマンにとってのディリクレみたいなものでしょうか。
ヤコビとディリクレ〜二人の偉大なる親友
同級のヤコビ(写真左上)とディリクレ(写真右下)は1827年以来親交を結び、終生変わらなかったとされます。
しかし二人の性格は正反対でした。火の玉の様なヤコビは数学界の覇王たるに安ぜず、1848年のベルリンの動乱に際し、政治運動にも参加した。
一方でディリクレは温厚なる学者肌だったが、数学の議論となるとお互いに歯に衣着せず、流石のヤコビも時折は閉口したという。
ヤコビをして、”ベルリンには数学者はいない”と揶揄された当時のドイツの数学だったが。1828年にディリクレがベルリン大の講師に、1831年には正教授になり、1834年には幾何学者のスタイナーがベルリン大で講義をする様になると暁光が差し出した。
以下でも述べる様に1844年にはヤコビがベルリンに戻り、ベルリン大学はドイツ数学の第一隆盛期を見る。
その後、ワイヤシュトラウスやクロネッカーの時代に沖天の勢いをなすに至る。
1842年、38歳のヤコビはベッセルと共に英国を訪問し、パリを経由してケーニヒスベルグに戻ったが、翌43年には体調を崩した。温かいイタリアへの転勤を進められたが、この時期のヤコビは経済的に貧窮していた。
このヤコビの苦境を知ったディリクレはフンボルトに依頼し、ヴィルヘルム4世の支援を受けられるように努め、お陰でヤコビは療養の為に数か月間をイタリアで過ごす。
その後、オーストリア=ハンガリー帝国からヤコビ招聘の話が出ると、1844年にはベルリンに戻り、ベルリン大学で講義をする様になった。その時の受講生にリーマンがいたのだ。
もし、リーマンがヤコビと出会ってなかったら、リーマンを世界的数学者にのし上げた第3の論文である、「アーベル関数論」は成し得たであろうか。つまり、アーベルの偉業をヤコビが受け継ぎ、ヤコビの執念の楕円関数の研究をリーマンが継承し、”アーベル関数論”として完成させたのだから。
最後に〜ヤコビとキャベツ頭(笑)
ディリクレは、ヤコビが過労で早死にするのではと心配していた。しかし、ヤコビの命を奪ったものは天然痘であった。
過労について、ヤコビはこう語ってる。
”勿論、私も確かに何度か過労から健康を危機にさらした。
しかしそれが何だというのだ。苛立つ事も無く、心配事もないのはこのキャベツ頭だけだ。
このキャベツ頭がそのノホホンとした安楽から、一体何を生み出せるというのだ”
まさにヤコビらしい笑える言葉ではある。ヤコビとしては過労で死んだ方が幸せだったかもしれない。それは、アーベルもガロアもリーマンも同様だったであろう。
しかし当時は医療技術が貧相で、一度病気に罹ると唯でさえ衰弱しかけた数学者の脆弱な肉体は一気に破綻した。彼らの知力や精神力が神の領域にあってもだ。
数学以外にも様々な危険な事にも手を出し、波乱万丈の生涯を送ったヤコビだが。彼もまた他の偉大な数学者と同様に、46年という短い生涯を終える(1851年没)。
親友ディリクレも、ヤコビが死んで4年後の1855年には、ガウスの後釜としてゲッチンゲンに戻った。しかし静かな生活は長くは続かず、最愛の妻がその3年後に急死すると、それを追うようにして急性の心臓病で59年の生涯を閉じる。
少し短いですが、今日はこれで終わりです。次回”その4”では、ヤコビとアーベルの確執の詳細について述べたいと思います。
キャベツ呼ばわりするとは流石だよな
やはり天才は考える次元が違うね
これはアーベルが目指した”特殊方程式の代数的可解性”にソックリですね。
36歳で破綻したヤコビですが。8年後のベルリン動乱での政治運動は、ヤブ医者の”神経を良好に保つ為の”助言が原因とされます。
兄も変わり者だったらしく、怪しげな電気療法にヤコビも巻き込まれたらしい。
結局はヤコビも自らの健康には人一倍神経を使ってたんでしょう。でも最後は天然痘という単純な病気で死んじゃうんです。
ヤコビらしいと言えばヤコビらしいですね。
ヤコビをブログにして本当に良かったと思います。超人ヤコビに感謝です。
ヤコビは変形を駆使し一般解を求めようとしますが、アーベルは解の置換と背理法を駆使し、一般解がない事を証明します。
楕円関数の研究でもヤコビの変換理論とアーベルの加法定理と二分しますが。ヤコビはガウスの等分(変換)理論を、アーベルはオイラーの加法定理をヒントにました。
しかしアーベルは、ガウスの等分理論の先にあるものをしっかりと捉えてました。流石のヤコビもこれには驚嘆します。
2人ともまるで双子の様に似通い、兄弟の様に仲が良かったんですね。
との視点で考えると、数学と哲学の融合とも言えるでしょうか。
多神教的発想と多様性と柔軟性をも備えた近未来のAIに、我々日本人は期待すべきなんですかね。
コメントありがとうです。