象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

実用と娯楽の和算とその旺盛〜和算とその時代(中盤)

2024年04月19日 05時05分41秒 | 数学のお話

 「前回」は、江戸時代に数学(和算)が大ブームになった背景と、時代が数学を必要とした理由、それに和算の開祖である関孝和について長々と述べました。
 そこで今日は学問だけではなく、実用や娯楽としても繁栄と旺盛を誇った江戸時代の和算についてです。 


オイラーをも超えた?建部賢弘

 孝和の偉業は多くの弟子により、”関流”和算として継承・発展していく。なかでも真の後継者に相応しいと呼び声の高いのが建部賢弘(1664-1739)である。
 年少の頃から兄賢明と共に数学を学び始め、若くして関の門を叩き、その才能を開花させた。彼の偉業はオイラーに先駆け、円周率πを求める公式を発見し、円理を発展させ円周率を41桁まで求めるなど、師と同様に世界レベルにあった。この優秀な弟子たちに囲まれ、晩年の関の仕事は彼らとの共同作業が多くなる。
 若干21歳の賢弘は、兄と協力して孝和の数学を伝える数学書を編纂し、孝和の主著「発微算法」に詳細な注を施して補う「発微算法演段諺解」(1685)を刊行した。更に、孝和と兄と3人で約28年掛かって、1710年に「大成算経」全20巻を著し、当時の和算の集大成とされた。

 そこで、賢弘の業績を(ウィキを参考に)1つ1つ紹介する。
 まず、円周率に関連した一連の研究が最も重要で、古来からの正多角形で円を近似する方法に累遍増約術を適用し、円周率を41桁まで正確に求めた。これは関孝和の手法に比べ、遥かに少ない計算で精度を大きく改善したものとされる。
 この偉業は、世界的に見ても数値的加速法の最初の例で、ルイス・リチャードソンが同じ方法を「リチャードソンの補外」として提示するのは1910年頃である。また、円周率の2乗を求める日本初の公式を考案した。
 次に、兄の賢明が発見した連分数展開を用い、極めて精度のいい円周率の近似分数を見出した。また、微小な円弧の長さをその矢の長さ(弧の高さ)で数値的に冪級数展開した。
 この際、数値計算で得た係数を零約術(連分数展開)で処理し、正しい係数に辿り着いた(「綴術算経」(1722)。但し、これは逆三角関数arcsin のテイラー展開に相当するもので、円弧の長さを計算する手法と言える。

 これこそが和算初の冪級数展開とされ、同じ結果をオイラーが得たのはその15年後である。但し、同じ1722年に京阪の和算家・鎌田俊清が「宅間流円理」で、sin,arcsinの冪級数展開を発表してるが、両者の影響関係は不明である。
 建部賢弘はまた、数学の方法論についても多くを論じ、数値計算と帰納に基づいた数学の方法論を示し、また無限の概念を”不尽”という言葉を用いて考察した。また、日本人初となる三角関数表を「算暦雑考」(1722)に著す。
 因みに、現在の日本数学会では若手の数学者を対象とする”建部賞”を設けている。 


和算と実用数学

 そこで、和算が現在の純粋数学や基礎数学の様に、計算ばかりに重きを置かれてなかった事を紹介する。
 冒頭でも述べたが、江戸時代の数学を語る上で、実用性の側面から見逃せない大きな分野が3つあった。1つは田畑の計算で、2つは毎年のを作るための暦法計算、3つ目は地図を作る為の測量術だ。
 以下、前回と同じく「和算の歴史・第2,3章」より一部抜粋です。

 暦法では、「前回」述べた様に平安時代から使われていた宣明暦があり、1685年に施行された貞享暦に代わった。が、日食の予報や太陰太陽暦に基づく年月日の確定など、観測と計算に基づく総合的な数理処理能力が当時の和算家たちに求められた。
 一方、地図を作る測量術は17世紀を通じて技術革新が起こる。幕府は全国の大名に命じ、自分の領地の地図をまとめた”国絵図”を製作させ、幕府への献上を義務づけた。
 事実、江戸幕府は過去に6度、日本地図を作成させ、4度目までは各国に提出させた測量図を合わせていたが故に全国を繋げると誤差が大きすぎて仕えなかった。その後、5度目で初めて全国的に測量し、正確なものに近づけた。

 因みに、「大河への道」の補足でも書いたが、建部賢弘の日本総図はこの時のもので、伊能図は6度目となる。

 大地の測量は天文観測と違い、野外を徒歩での作業となり、迅速に計算・作図を進める必要があった。
 国絵図を作る為に体系化された測量術は、そろばんによる計算を補助的な手段としても用いてたが、平板測量といった現在も使われてる測量技術の原型をオランダ経由で導入していた。
 関孝和と同時代の清水貞徳(1645-1717)は清水流の測量術をまとめ上げたが、それは当時最先端であったヨーロッパの測量術を日本風に置き換えたに過ぎなかった。しかし、和算とヨーロッパの技術が結びついた一例でもある。

 実学の内容は、地図と暦の作成や土地の計算ばかりではなかった。もっと日常生活に密着した分野でも和算の実践は行われた。
 江戸時代の日本は、農業・漁業・林業に多くを依存する社会で、特に水田の管理には様々な知恵と技が投入された。特に、農業用水の確保と管理には和算家が実践の場として活動する。
 例えば、19世紀初頭の和算家・竹内度道は農業用水をくみ上げる為の水車を設計し、現地で大工の指導に当たっていた。幕末になると、三河の和算家・彦坂範善は最新の揚水機を導入する計画を立てた。この様に、農業の現場で頼りにされてたのが各地域の和算家であったのだ。
 一方で、幕府が抱える天文台組織(天文方)は、当初は毎年の暦の作成のみを業務としてたが、19世紀以降にはその活動を広げ、海外事情の翻訳なども天文方に命じた。この様に、和算家兼暦学者らは西洋の天文学を導入する過程で西洋数学にも触れる機会があった。
 つまり、社会の役に立つ数学ならば西洋であろうと差別しない。この様な意識で西洋数学の導入に取り組んでいた和算家も少なくなかったという。

 また、役人の視点で実用算術を見ると、土木工事の監督や徴税業務などが算術を後押しした。一般に農村部の民政も和算が使われ、”地方算法”という言葉も使われた。他に、年貢の換算や検地の仕方や堤防の築き方や水路の維持管理などが算術の応用として取り上げられ、幕末には多数の書籍が刊行される。
 他方で、職人の世界でも和算を応用し、職人の手間賃の計算などは勿論、織物業界では布に織り込む模様のパターンを数値化して記録する工夫も見られるようになった。

 一方で江戸時代には、家元制により全国各地に、和算の伝承者やその家系である家元が塾を開き、趣味の分野も含め、和算教育が盛んになった。が、特に農村部で拠点になった塾のうち、少なからぬ数を地域の豪農と呼ばれる人たちが担っていた。
 例えば、豪農出身の和算家では一関藩の千葉胤秀は世話役から藩の士分に出世し、地域の和算教育に大きな貢献を果たした。富山藩の石黒信由も同様に和算教育や地図作成に活躍した。岡山藩には小野光右衛門が地域の顔役であると共に和算教育にも熱心に当たった。
 つまり、村で必要となる算術の知識とその普及は豪農層が大きな役割を果たしていた。「大河への道」でも書いたが、こうした日本全国各地域の測量や和算の知識の蓄積がなかったら、伊能図の完成は不可能だったと言っていい。


娯楽や趣味や学問として和算

 江戸時代も後半期になると、数多くの趣味領域で家元制が組織される。
 茶道や華道の様に室町時代から続く伝統的な芸道の他にも、俳句や和算などで愛好者集団を統制する家元制(師匠を頂点とする門弟集団)が立ち上った。今の様な高等教育機関や公共文化施設が無かった時代だが、それぞれの趣味を嗜む人たちは私的なサークルにその長(家元)を立て、ピラミッド状の組織の下で活動を進めた。
 和算の場合、全国各地に大小様々な家元の流派が乱立したが、江戸を拠点とし最も大きな組織を誇ったのが関孝和を元祖と仰ぐ関流でした。1760年代頃、関孝和から数えて4代目の弟子である山路主住は、関の没後に進展した成果も取り入れ、関流の確立に貢献した。
 彼の元には多くの門弟が集まり、更にその中から全国的に門人を集める塾が作られた。特に関流の場合、全国から参勤交代で江戸にやってきた侍たちが多数入門した事が、その全国的普及に一役買ったとされる。

 塾の運営はそれぞれで、段階を1つ1つ踏んでステップアップするシステムをとる塾もあったらしい。
 全国各地の和算の流派に集まる人たちは、パズルを解く感覚で数学の問題に打ち興じていた。彼らは流派が用意したカリキュラムにより、修得技能が認められると家元から免許皆伝を与えられ、彼らの上昇志向が家元制を支えてたとされる。
 その一方で、家元組織は流派の外に向けて積極的に宣伝を行っていた。算額の奉納はその一例である。
 因みに、算額とは数学の問題と解答を絵馬に仕立て、神社仏閣の絵馬堂に奉納したものを指すが、これが家元組織の成果や宣伝として確立し、全国各地の主な寺社に掲げられた。
 この算額奉納は、印刷物を刊行するより手軽に衆人の目を引くやり方で、数学の問題も人目を引く複雑な幾何学的問題や派手に彩色された図形などが選ばれていた。

 江戸時代後半には、数学や暦学の書を専門に刊行する書店も現れ、京都の書店の天王寺屋・市郎兵衛の水玉堂は関流の和算書を数多く出版し、その普及を手助けする。やがて幕末になると、江戸の北林堂が関流の和算書を多数刊行し、書籍の普及により和算の愛好者は更に数を増やしていく。
 私塾ばかりではなく、19世紀になると有力な藩の藩校でも算術を教授する例が見られる様になる。例えば、仙台藩の藩校養賢堂には算術師範が複数名設置され、40名程の藩士学生に算術を指導してたとされる。特に藩校教育は、遊びや娯楽よりも実践・実学に重点を置いた数学が教えられていた。

 以上、「江戸の数学」から長々と紹介しましたが、江戸時代の和算が実用数学や娯楽として、広く当り前の様に普及してた事がよく理解できますね。
 次回(終盤)は和算の衰退と西洋数学の台頭について書きたいと思います。 



6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (肱雲)
2024-04-20 02:36:17
転象さん、おはようございます
先日の地震ソチラはどうでしたか
コチラはかなり揺れました
難解な数学の噺では
私のバカな頭は揺れないのですが
南海地震では
かなり揺れるのではナぃンカイ
返信する
肱雲さん (象が転んだ)
2024-04-20 05:43:50
こちらこそ、お早うございます。
私の方は震度3ほどだったので、ほんの少し揺れたくらいでした。
肱雲さんは確か四国でしたよね。
四国の何処かは忘れましたが、結構揺れたでしょうね。
柳川もずっと前に震度5ってのがありましたが、本棚が倒れる程に凄かったです。

地震の予測も最近は数理モデルが使われるらしく、あるパターンがあるみたいです。
でも高い確率で予測するには、まだまだ時間がかかるでしょうね。
江戸時代の和算のお話ですが、読んで下さって有難うです。
返信する
道後温泉の近くですよ~ (こううん)
2024-04-20 06:27:54
芸予地震の方がより揺れました
タンスの引き出しが全部開いて
家内のヘソクリが飛び出して来ました
ソレは冗談だけどタンス全開はホンマです
地震予知がある程度出来る様な数学に
なって欲しいものですネ~
返信する
肱雲さん (象が転んだ)
2024-04-20 07:38:58
愛媛だったんですね。
かなり酷かったでしょうね。
こうした自然災害は場所によっても微妙に違うんですよね。 
ともあれ、何事もなくてよかったです。
”タンス全開”というのもポルターガイストの世界みたいで、恐ろしかったでしょうね。

言われる通り、難しいだけの数学ではでなく、地震を予測できる様な実学でありたいものです。
返信する
実学で思い出したこと (kouun)
2024-04-20 08:57:01
福沢諭吉が実学重視でしたよネ~
イギリス功利主義が彼の思想の
バックボーンでしたか
そして東洋には未発達の
西洋数理(物理)学を身に付けるべきだと
脱亜入欧論を主張しました
それが結果的には大日本帝国の
亜細亜侵略に利用され
日本帝国主義に結実した様に思われます
福沢は東洋にも和算の様な
ハイレベル数学が存在する事を
どの程度把握し理解していたのでしょうか
返信する
肱雲さん (象が転んだ)
2024-04-20 14:49:00
福沢諭吉は思想家のイメージが強いですが
蘭学塾の出身ですから、洋学寄り(被れ)にはなりますかね。
和算は明治維新の頃になると衰退し、洋算や洋学が跋扈します。
ただ多くの和算塾では実学や実践より、問題を解く事に重きが置かれ、洋学や洋算に比べれば、優秀な人材を自由に生み出す地盤が弱かった様に思います。
もし福沢が和算に通じてたなら、英語や独語を学んでたでしょうね。

それに数学は調和を重視しますから、格差をつけたがる西洋科学とは相容れない所もあります。
言われる通り、西洋科学が日本の軍国主義を後押しし、更に太平洋戦争に原爆投下に繋がったのは皮肉ですよね。
返信する

コメントを投稿