ウロコのつぶやき

昭和生まれの深海魚が海の底からお送りします。

アーティストな彼

2007-03-14 00:03:14 | 日記
今週のザ・テレビジョンの表紙が女子シングルの二人って所にフジの気合の入れ具合が分かります。特集記事も当然この二人がバーン!と前面に出ていて、オマケのように男子やその他も載ってました。しかしそんな扱いはともかくとして、記事の中身自体は意外と冷静だなーと思ったらライターがいつもの人でした。「モロゾフをして『氷上のアーティスト』と言わしめた」という、この発言の出所はWSDですね。ていうかライター同じ人ですね。普段からフィギュアの記事を書きまくってる人の所へ原稿を発注する辺り、この雑誌は結構良心的なのかもと思いました。

ところでこの、『氷上のアーティスト』ってどういう意味なんでしょう。
WFSのモロゾフさんと、COLORSのJ.ウィアー選手と、二人とも大ちゃんのことを『彼「こそ」がアーティストだ』って言ってるのが個人的に気になります。
二人とも「こそ」って言ってるんだけど、ここは英語ではどういったニュアンスだったんだろう。日本語の意味から言えば、「アーティストと呼ばれている選手は何人かいるけど、中でも彼はホンモノなんだ」という風に受け取れるんですが。
なんでそこに固執するのかというと、私自身、彼に本格的にハマった時の感覚がこの『彼「こそ」がアーティストだ』っていう感覚に近かったからです。
厳密に言うと「天性の芸術家っていうのは、こういうヤツのことを言うんだな」だったんですけどね。

その辺、以前にもごちゃごちゃ書いたんだけど手短にまとめます。
【1】「表現」とは「情報の伝達」であると定義します。
【2】そして情報の伝達に特化したツールとして、人類は「言語」ってものを持ってます。
【3】フィギュアスケートに於ける表現では、原則として言語による情報伝達(=歌詞の入ったヴォーカル曲の使用)は禁止されてます。
【4】それでも普通は間接的な形で言語による表現が取り入れられてるみたいです(言語による曲の解釈→身体表現への翻訳→受け手の言語への再翻訳という感じで)。
なぜなら言語には「伝達」の他に、思考や感情の明確化・固定化という役割もあるからです。

…………なんてことばっかり考えてる訳じゃないんですよ私だって普段は。
でも大ちゃんの「ノクターン」見て「うわすげぇ」と思い、その感覚が何なのかを私なりに考えると、結論としては彼が多分「言語による曲の解釈」その他の過程をすっとばして、まんま感覚だけで表現してる……ように感じたという、その部分なんですよね。
(以前にも書きましたけど、このことに気づいた時、これでも私かなり凹んだんですよ。『自分はなんて「言葉」に捉われてるんだろう』とかそんなこと色々思っちゃって)

モロゾフさんが言う「頭ではなくハートで滑っている」って多分こういうことじゃないかと思うんですが、どうだろう。違うのかな。
大ちゃん自作の、まんま感覚だけで滑ってるような「ノクターン」と違い、モロゾフさんの振付けには当然モロゾフさんの解釈が入ってます。
それでも大ちゃんが踊ると、不思議とその感情がリアルになるよな気がするんですね。彼はあくまでも自分自身の感情を表現していて、なのにそれがそのまま音楽の表現でもあるという不思議な状態になってることがままあるような。
もしかすると、それはフィギュアにおける「表現」として間違ってるのかも知れないですが。本来は、自分の感情ではなく「音楽」をきっちりと演じなければいけないのかも知れませんが。
でも見る方に取っては、きっちり演じられた架空の感情よりも、リアルな感情の方に気持ちを揺さぶられるんではないかなと思いました。少なくとも私はそうなので。

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改めてMOIを見たんですが、この時の「ロクサーヌ」はまた一段と凄いですね。一回跪いた後とか、体力的にはキツいはずなのになんかものすごく気持ち良さそうに見える。個人的にこのプログラムは堕ちていく男のエロティシズムが魅力だと思っているんですが、この時は純粋に身体の躍動感だけでも楽しめる感じ。本人も、自在に動く体の感覚を楽しんでるように見えます。血が騒ぐ。