唐突ですが、昔見た映画の感想を一本書いたので載せときます。
なんで今この時期に「ブレア・ウィッチ プロジェクト」なのかというと私なりに色々あるんですが省略。なんか、『響鬼』の設定とか微妙に関係あったような気がするんですが、それに関してはまた後日ということで。
***
ブレア・ウィッチ プロジェクト(1999年 アメリカ)
1994年10月、ドキュメンタリー映画の撮影のために魔女伝説の残る場所、ブラック・ヒルズの森に足を踏み入れた映画学科の学生三人が消息を断った。大規模な捜索が行われるも三人の行方は杳として知れず、ただ彼らが撮影したフィルムだけが発見される。……
……なーんて話はぜーんぶウ・ソ(はぁと) な偽ドキュメンタリー映画でございます。
個人的には「その手があったか」というシテヤラレタ感と、小ネタや小道具の使い方がツボで結構楽しめた作品ですが、世間一般的にはオススメ出来ない。見てるだけで乗り物酔いするし。
こんな反則技が通用するのは一回こっきりだろうなあと思ってたら案の定、パート2はコケたみたいです。
この映画、結論から言うと肝心の『魔女』やそれに類するものは全く映っていません。
映っているのはひたすら『魔女が棲むと言われている森』、その、如何にも何かありそうなヤバそうなシュチュエーション。
それが結局「オチてねーじゃねーか!」という批判に繋がってるんですが、私はこれ、ちょっと面白いと思うんですよね。
ていうか実は私も映画だけでは不完全燃焼で、「ブレア・ウィッチ プロジェクト完全調書」(角川書店)を買って読んだんですが、これ結構映画より面白かったです。
行方不明事件の調査資料を集めたというフレコミの本で、例によって事件は未解決のまま終わってるんですが、興味深いのは昔の資料、ブレア・ウィッチの正体だとされるエリー・ケドウォードの事件より古い開拓当初の資料だったりします。
これらの行間を子細に読んでいけば、事件の舞台となったブラック・ヒルズの森に『何か』があるのが何となーく見えて来る。
ここで私は、水木しげるの描く妖怪の絵を思い出したんですよね。人物とか、肝心の妖怪はお馴染みの割と単純な線で描かれてるのに、背景は非常にち密に書き込まれています。で、ある時ふと思ったんですよね。水木サン(御本人の自称に準拠)はもしかして、『妖怪』ではなく、『妖怪のいる場所』を描いてるんじゃないのかな、と。
水木サン自身が色んな所で妖怪に会っていると仰っているけれど、それをはっきりと目で見た訳ではないようなので。御本人がしばしば「この世には、目には見えない『何か』が存在するのだ」と仰っているように、目で見たのではなく、いると感じた。そして、「そこに『何か』がいる」と感じたその『場所』こそを、あれ程までに精密に描写しているのかなと持った訳です。
ブレア・ウィッチ プロジェクト、もしかしてそういうこと?
つまりこの映画は、『魔女』を描く映画ではなく、『魔女のいる場所』を描く映画ということ?
……そう思うに至った私の基本的な考えは以下の2つです。
1)妖異、怪異の類いは、主に人間の脳の中に棲んでいる。
2)土地には、そこにいる人間に何らかの影響を与える力がある。
……つまり、その場所にある何らかの力が人間の精神に影響を与え、怪異の幻影を見せるとする。現実世界に存在したものでなくとも、その人間が「ここでそれを見た」と認識したならば、その人間にとって、まさしくそれはそこにいたということであり、その場所は怪異のいる場所ということになる。……のではないかなと。
そう考えると、この映画の全てではないにしろ、大部分の事象は理解できるんですよね。
その土地には、人間の精神に強い影響を与える力が働いていた。先住民たちはそこに決して近付かなかったし、女性や子供など感受性の高い者はそこである種のヒステリー状態になり、幻覚を見たり幻聴を聞いたりする。そこへ無気味な伝説が加われば、自己暗示の力も加わって幻覚に一定の法則が現れる。そういう者が一人現れれば、連鎖反応で集団ヒステリーも起きる。
この映画に登場する三人の学生たちも、明らかに通常の判断力を失っている。
キリスト教的な発想をするなら、そこにいる『何か』は悪魔的な存在であり、それを信じるのは異端かも知れません。
けれど、私たち日本人に取ってはそれほど抵抗感はないはず。八百万の神と呼び、自然界のあらゆるものに神が宿ると言うのが日本古来の宗教感ですから。
ネイティブアメリカンも同じようなアミニズムの宗教を持っていたはずですよね。そういう宗教観の元では、その『場所』に対しても恐怖だけでなく畏敬の念があり、『敬して遠ざける』の姿勢でその場所を避けたはず。神聖とされ、そこに立ち入ることを禁じられた土地、というのは、日本にもしばしば見受けられたと思うんですよね。
そもそも『魔』というのは何なのか。『魔の世界』によると、それは新しい神が入って来たことにより、それまでいた古い神々が放逐され、転落した姿だと言われています。特にキリスト教やイスラム教のような近代的な一神教の普及は、それまで信仰されていた自然神的な多神教の神々を悪魔の地位に落としてしまったのだとか。
例外的なのが日本で、神仏混合という力技によって新規渡来の仏教と古来の神道を両立させてしまったため、日本の古来の神々は魔物にされずに済んだらしいです。それどころか逆に、日本人には魔的なものを神様に祭り上げるという変わったクセがありますね(菅原道真の怨霊→天神様とか)。
それはともかく。
先住民に、アミニズムの神の一種として敬われつつ恐れられていたその場所の『何か』。それは新規に入って来たキリスト教により魔的なもの=『魔女』とされ、マイナスイメージのみが流布してしまったのではないでしょうか。更にそれを信じるのは異端とし、公式に扱うことさえタブーとなれば、余計に人々の暗い好奇心をかきたてる。
かくして、感受性が高く、魔女伝説に共感を覚える人間(それには本編のヒロインであるヘザー・ドナヒューも含まれる)が、この場所から受ける影響と自己暗示によって錯乱し、犠牲者を出すと同時に自らも犠牲者となって行く。その伝承は人々の心に暗い影を落とし、そして次の犠牲者が……。
結論。『立ち入ってはならない』と言われている場所には、みだりに立ち入ってはならないのです。
……なんて話は、もちろん私の妄想ですよ、妄想。
そういう妄想で遊ぶ余地があったのが、自分的には面白かったという話です。
ていうか映画作った人たち(多分キリスト教徒)は、多分こんなこと考えてないと自分でも思います。
なんで今この時期に「ブレア・ウィッチ プロジェクト」なのかというと私なりに色々あるんですが省略。なんか、『響鬼』の設定とか微妙に関係あったような気がするんですが、それに関してはまた後日ということで。
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ブレア・ウィッチ プロジェクト(1999年 アメリカ)
1994年10月、ドキュメンタリー映画の撮影のために魔女伝説の残る場所、ブラック・ヒルズの森に足を踏み入れた映画学科の学生三人が消息を断った。大規模な捜索が行われるも三人の行方は杳として知れず、ただ彼らが撮影したフィルムだけが発見される。……
……なーんて話はぜーんぶウ・ソ(はぁと) な偽ドキュメンタリー映画でございます。
個人的には「その手があったか」というシテヤラレタ感と、小ネタや小道具の使い方がツボで結構楽しめた作品ですが、世間一般的にはオススメ出来ない。見てるだけで乗り物酔いするし。
こんな反則技が通用するのは一回こっきりだろうなあと思ってたら案の定、パート2はコケたみたいです。
この映画、結論から言うと肝心の『魔女』やそれに類するものは全く映っていません。
映っているのはひたすら『魔女が棲むと言われている森』、その、如何にも何かありそうなヤバそうなシュチュエーション。
それが結局「オチてねーじゃねーか!」という批判に繋がってるんですが、私はこれ、ちょっと面白いと思うんですよね。
ていうか実は私も映画だけでは不完全燃焼で、「ブレア・ウィッチ プロジェクト完全調書」(角川書店)を買って読んだんですが、これ結構映画より面白かったです。
行方不明事件の調査資料を集めたというフレコミの本で、例によって事件は未解決のまま終わってるんですが、興味深いのは昔の資料、ブレア・ウィッチの正体だとされるエリー・ケドウォードの事件より古い開拓当初の資料だったりします。
これらの行間を子細に読んでいけば、事件の舞台となったブラック・ヒルズの森に『何か』があるのが何となーく見えて来る。
ここで私は、水木しげるの描く妖怪の絵を思い出したんですよね。人物とか、肝心の妖怪はお馴染みの割と単純な線で描かれてるのに、背景は非常にち密に書き込まれています。で、ある時ふと思ったんですよね。水木サン(御本人の自称に準拠)はもしかして、『妖怪』ではなく、『妖怪のいる場所』を描いてるんじゃないのかな、と。
水木サン自身が色んな所で妖怪に会っていると仰っているけれど、それをはっきりと目で見た訳ではないようなので。御本人がしばしば「この世には、目には見えない『何か』が存在するのだ」と仰っているように、目で見たのではなく、いると感じた。そして、「そこに『何か』がいる」と感じたその『場所』こそを、あれ程までに精密に描写しているのかなと持った訳です。
ブレア・ウィッチ プロジェクト、もしかしてそういうこと?
つまりこの映画は、『魔女』を描く映画ではなく、『魔女のいる場所』を描く映画ということ?
……そう思うに至った私の基本的な考えは以下の2つです。
1)妖異、怪異の類いは、主に人間の脳の中に棲んでいる。
2)土地には、そこにいる人間に何らかの影響を与える力がある。
……つまり、その場所にある何らかの力が人間の精神に影響を与え、怪異の幻影を見せるとする。現実世界に存在したものでなくとも、その人間が「ここでそれを見た」と認識したならば、その人間にとって、まさしくそれはそこにいたということであり、その場所は怪異のいる場所ということになる。……のではないかなと。
そう考えると、この映画の全てではないにしろ、大部分の事象は理解できるんですよね。
その土地には、人間の精神に強い影響を与える力が働いていた。先住民たちはそこに決して近付かなかったし、女性や子供など感受性の高い者はそこである種のヒステリー状態になり、幻覚を見たり幻聴を聞いたりする。そこへ無気味な伝説が加われば、自己暗示の力も加わって幻覚に一定の法則が現れる。そういう者が一人現れれば、連鎖反応で集団ヒステリーも起きる。
この映画に登場する三人の学生たちも、明らかに通常の判断力を失っている。
キリスト教的な発想をするなら、そこにいる『何か』は悪魔的な存在であり、それを信じるのは異端かも知れません。
けれど、私たち日本人に取ってはそれほど抵抗感はないはず。八百万の神と呼び、自然界のあらゆるものに神が宿ると言うのが日本古来の宗教感ですから。
ネイティブアメリカンも同じようなアミニズムの宗教を持っていたはずですよね。そういう宗教観の元では、その『場所』に対しても恐怖だけでなく畏敬の念があり、『敬して遠ざける』の姿勢でその場所を避けたはず。神聖とされ、そこに立ち入ることを禁じられた土地、というのは、日本にもしばしば見受けられたと思うんですよね。
そもそも『魔』というのは何なのか。『魔の世界』によると、それは新しい神が入って来たことにより、それまでいた古い神々が放逐され、転落した姿だと言われています。特にキリスト教やイスラム教のような近代的な一神教の普及は、それまで信仰されていた自然神的な多神教の神々を悪魔の地位に落としてしまったのだとか。
例外的なのが日本で、神仏混合という力技によって新規渡来の仏教と古来の神道を両立させてしまったため、日本の古来の神々は魔物にされずに済んだらしいです。それどころか逆に、日本人には魔的なものを神様に祭り上げるという変わったクセがありますね(菅原道真の怨霊→天神様とか)。
それはともかく。
先住民に、アミニズムの神の一種として敬われつつ恐れられていたその場所の『何か』。それは新規に入って来たキリスト教により魔的なもの=『魔女』とされ、マイナスイメージのみが流布してしまったのではないでしょうか。更にそれを信じるのは異端とし、公式に扱うことさえタブーとなれば、余計に人々の暗い好奇心をかきたてる。
かくして、感受性が高く、魔女伝説に共感を覚える人間(それには本編のヒロインであるヘザー・ドナヒューも含まれる)が、この場所から受ける影響と自己暗示によって錯乱し、犠牲者を出すと同時に自らも犠牲者となって行く。その伝承は人々の心に暗い影を落とし、そして次の犠牲者が……。
結論。『立ち入ってはならない』と言われている場所には、みだりに立ち入ってはならないのです。
……なんて話は、もちろん私の妄想ですよ、妄想。
そういう妄想で遊ぶ余地があったのが、自分的には面白かったという話です。
ていうか映画作った人たち(多分キリスト教徒)は、多分こんなこと考えてないと自分でも思います。
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