maruの下手の横好き写真とつぶやき
写真を撮ったり、音楽(クラシック・ロック)をよく聴き、読書は古典(主に哲学中心)がメインです。全体主義社会の動きに警戒。
 



思考停止はやめようと、よく言っていますが、
そんな事に関連する事を一つ・・・

ハンナ・アーレントの責任と判断という本があります。
著作というより、講演や講義録の位置づけです。

アーレントと言えば、ナチス全体主義の分析で有名ですが、
イスラエルのアイヒマンという有名な本では、凡庸の悪という言葉でもって、
最悪の事態を引き起こすのは、極悪人ではなく、何も考えない人間性だと炙りだし、
世界を驚かせた人です。

コロナ以前から、社会はディストピア化していく事に警戒していたので、
現在の状況から、今一度アーレントに触れてみようと思った次第。
この本は、初めてでしたが、ナチスの全体主義の事が書いてあるはずなのに、
今の事のように思えてしまうので、少し怖い部分もありました。

アーレントが考える、最悪の事態を引き起こした人として、思考しない人間性を上げています。
思考するとは、自己との対話をする事・・・それは自分の中にいるもう一人の自分と、
対話する事だと言います。それをソクラテスにまで遡り、考察していきます。
その対話は、孤独の中にあるといい、誰かと共にいたり、何か作業をすると、
思考はできない。自己との対話はそこにあると言います。
孤立とは違い、誰とも関係性がない事とは違う。
そこで、自分が自分でいられなくなるような事はやらないという選択ができるのだと言います。
全体主義の中で、(不利になろうと)それに逆らった人たちは、そういう思考ができた。
人にやれと言われて、なにか強烈にやりたくない、という感覚。
思考しない人には、これが出来ないという訳です。

あの頃のドイツで、いかに多くの人が、おかしな決まりごとに従って、悪を成したか。
何故、止めるという選択肢を持てなかったかの分析になります。
当時の日本だって似たようなものでしょう。

さらに、道徳の問題もあり、人間は道徳という価値観に従う生き物ですが、
この道徳は、一夜にして変わるものと言います。
昨日の道徳と、今日の道徳は変わるので、ぼんやり考えないで生きていると、
その新しい道徳に従う他はない訳です。
ここで、思考する習慣のない人たちは、新しい価値観に従って生きるだけとなる。
この逆もあって、終戦で元の価値観にあっという間に戻ると、そこでも考える事をせず、
その価値観で生きていく。日本もそうでしたね。

今のコロナ禍の世界では、見事に何も考えない人たちが、
新しい道徳・・・ニューノーマルに従っている事が、ダブってしまいます。
そして、その価値観から外れる人を阻害する事も、正義だと考える。

自分の考えを持たない事からくる盲目的な臆病さも手伝って、
コロナを恐れ、ワクチンにしがみつく。
エライ人が言うから、有名人が言うから・・・・それだけです。
自分の代わりに考えてくれると、ありがたがって、次のお言葉を待っています。

そういえば、孤独になって考えることが出来る人、少ないですね。
みんな、SNSとやらで繋がらないと、取り残されると恐れている。
自分は、何もやっていませんが、世間には、孤独になる事が悪い事のような価値観があります。
あ、日本だけじゃないですね。
なるほど、思考もしなくなる訳です。
その先に何があるのか・・・ニヒリズム?


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