コロナで、ぎゃあぎゃあ騒いでいたころ、
いや、今もそうですが、何故に人は自由や平等を喜んで手放すのか?
自由・平等を守れと主張するリベラル知識人までもが、
中国やニュージーランドを見倣えとまで言っていた。
ニュージーランドも、現在ではゼロコロナは止めて、
絶賛感染拡大中ですが、そりゃ今迄免疫の訓練やってないから、
そうなります。いつかは国を開くのだから、避けては通れない。
中国(+北朝鮮)くらいのがゼロコロナですが、五輪は大丈夫ですかね。
まあ、あの国の事だから、強制的に大丈夫になるのでしょう。
そういうゼロコロナに憧れてしまう方々は、
強制力を行使しろと訴えていた訳です。
今は、ワクチンに対して同じような事を言い始め、
ワクチン接種者で経済回せばいいという。
その為に、ワクチンパスポートで人を分断し、自由を制限する事も厭わないと、
平気で主張しているようにしか思えない。
でも、おかしくないか?と思う訳です。 コロナが始まってずっとです。
表現の自由、言論の自由などなど、〇〇の自由と言うのはよく聞きます。
それを簡単に捨て去って、そんな概念は無かったかのように振舞う。
協力しない人は、社会的に非常識人とされたり、
場合によっては、非国民扱いです。
今までは、自由と平等が少ない日本を嘆く人は多かったはずです。
海外より遅れている、日本は先進国ではないと。
なのに、今ではコロナ対策が緩い、これでは先進国ではない、となっている。
厳しい対策や、ワクチン接種が先進国の証になっている。
先進国コンプレックスなんですかね。
福沢諭吉の学問のすすめでは、欧米から学ぶ事を推奨していましたが、
あれは明治の話で、ちゃんと、西洋と日本は違うから取捨選択して
取り入れろとも言っている。
なんでも真似すりゃいいというのは、何も考えてないと釘を刺していた。
話が反れてしまった。
自由・平等を、簡単に捨て去っていいのか?
何故、いろいろ疑問に思わないのか?
何故、考えないのか?
不思議でしょうがない。
という事で、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を読んでいる。
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