軽すぎる「説明責任」
道新朝刊片隅の「@政の現場」藤本卓郎さんの記事転載です。
「説明責任」。 国会でよく耳にする言葉だ。
元々は会計上の責任を指す「アカウンタビリティー」を和訳したもので、経営者が株主に対し、財務内容などをつじつまが合うように説明する責任があるという概念を、政治の世界に当てはめたという。
だが、少なくとも記者が国会担当になってこの4年間、国会で本来の意味通りに説明責任が果たされた記憶はない。
最近では公職選挙法違反の疑いで秘書が逮捕された河井克行前法相と妻の案里参院議員だ。
両氏は通常国会開会直前の1月15日に記者団の受けたものの、事実関係などは「捜査中」を盾に説明せず終了。現在、案里氏は何度となく国会で取材要請されても無言を貫いている。
こうした姿勢は「1強」と呼ばれて久しい安倍晋三首相とも重なる。今国会では学校法人「森友学園」を巡る決裁文書改ざん問題が再燃したが、首相は再調査に応じない考えだ。
改ざんを強いられたとして自殺した財務省近畿財務局職員の手記が公表され、その内容と政府の主張に食い違いがある以上、再調査を指示することが行政府の長としての責務ではないか。
つじつまを無視し、公の場で形だけの発言をして取り繕うことが「説明責任」ではない。国民への軽すぎる責任、責任が政治不信に拍車をかけている。