リョウの近況

筆不精のリョウが親・子・兄弟・親戚・友人・知人・幼なじみ達と彼らの友人達にお届けする究極のエコ便りです。

小旅行(ポーランド)

2008-08-19 02:21:42 | 旅行
ドブリーデン!

念願叶って行ってきました。負の世界遺産アウシュビッツに。
ここは第2次世界大戦中ナチス・ドイツが、占領した土地からユダヤ人だけでなくポーランド人や共産主義者、反ナチス、同性愛者などを強制収容し直ぐにガス室で殺したり過酷な労働の後殺したりした場所です。
28の民族、150万人の人がここで殺されたそうです。

あまりの残酷さにかなりの衝撃を受け2・3日は食事もできないかも? なんて話も聞いていたのでかなり覚悟をして行ったのですが私はそれほど衝撃は受けませんでした。
むしろ衝撃などは何もなく「今まで自分が知っていたことの事実確認をして来た」と言う感じでした。
残酷さは小学生の頃読んだ「アンネの日記」に始まり新聞や雑誌・テレビや映画などでよく見聞きしていたのでほとんどのことをすでに知っていたからだと思います。
ただユダヤ人というだけで強制収容され殺された人たちのことを思うと言葉では言い表せない複雑な気持ちになります。
可哀想という言葉を飛び越えてもっと違う言葉があるんじゃないかな?といつも考えてしまいます。

アウシュビッツの建物はそのまま保存され今は博物館になっています。
建物の中は撮影禁止なので写真はありませんが私が想像していたより明るくきれいだったので少しイメージが違ったなと思いました。
でも建物の中は修復されたものだそうです。
この修復はドイツの工科大学の学生さんが毎年休みを利用してボランティアで作業をしているそうです。とてもいいことだと思いました。

鉄の門の奥がアウシュビッツ強制収容所

 門の上に「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)」の文字

収容者が蒔いた種から育った木

このアウシュビッツから約2km離れたところに第2のアウシュビッツと言われているピルケナウ強制収容所があります。
アウシュビッツに収容しきれずに改に作ったそうでかなり広い敷地に当時300棟以上のバラックが建っていたそうです。(アウシュビッツは28棟)
ここは映像でもよく見たことがある場所でした。
列車の引込み線があり当時貨物列車にすし詰め状態でユダヤ人達が連れてこられ下車と同時に強制収容所行きとガス室行きに選別されたところです。
真っ直ぐ数分歩いたところにガス室があるのです。
赤ちゃんや子供連れの人もそのままガス室に送り込まれたそうでここをガス室まで歩いた人の気持ちはどんなだったのだろうと思うと・・・・。

「死の門」を通りここで貨物列車から降ろされた
 
「死の門」を入って左側はレンガ造り。ほぼそのままの状態で残っている

右側は木造の収容棟 風化されて一部しか残っていない

機関車はまた収容者を運ぶためここで向きを変えた

 引き込み線の終点
 
画面右側にガス室と焼却炉があったが終戦時にドイツ軍が慌てて破壊しその状態で今も残っている。
今日も遺族が花を手向けていた。
画面手前には大きな国際慰霊碑がありそのそばには28の言語で書かれた慰霊の石碑がある。

レンガ造りの収容棟に入ってみました。
ここは復元ではなく当時のままの状態で残されています。
復元された所とはまた違った、ずっしりと重いものを感じました。
アウシュビッツを見学した人は是非ここも見ておくべきだと思います。
ガイドブックには「蚕棚のようなベッドにぎゅうぎゅう詰めで寝かされていた」と書かれていましたが蚕棚の方がよほどきれいだと思います。

私がとても驚いたことが一つあります。
アウシュビッツ強制収容所の330Vの電気が流れていた有刺鉄線のすぐ隣に司令官の官舎があるのです。今もそのまま残っています。
終戦後この司令官は裁判にかけられたのですが夫人はずっとここに住み続けたそうです。
そしてこの両方の強制収容所の周りには民家が沢山あり人が住んでいるのです。
有刺鉄線の奥は木が生い茂っていましたが石造りの立派な家が立ち並んでいます。
150万人の命が奪われたところなのに嫌ではないのかな?と考えてしまいます。

でもここで働いていたドイツ人の人達は悪いことをしていると言う思いはなくむしろ誇りに思っていた、だから夫人もずっとそこに住み続けることができたのではないかと聞いてものすごい衝撃を受けました。

多くのアメリカ人が日本への原爆投下を「やって良かった」と思っているのと少し似ているのかな?と思いました。(一緒にするとアメリカ人は憤慨するでしょうが)
戦争とは何か? 平和とは何か? を全く違う視点で考えたひと時でした。

世界中の人たちが争いのない穏やかな気持ちで毎日を過ごせる日が来るのだろうか?
そんな日が来るのをより強く願う今日この頃です。