marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(105回目)

2016-08-22 18:30:24 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
今日は一時、台風ですごい雨。通り道に近い(といっても今晩あたりが僕の居るところが山とか)関東や北海道では大変な被害が起きているようだ。原宿では木が線路に倒れて山手線ストップだと。自然の猛威。この辺は旧約の詩編か、イエスが弟子達がおびえる小舟の上での嵐を「静まれ、黙れ!」とお叱りになったことを思いつつ、被害が大きくならないことを祈るぞ。「台風よ静まれ、害を起こすな!」 どうだ、・・・これで大丈夫だな!
◆ヨハネ伝第14章に入ったぞ。んで、残り7章か。けれど、終わりの方、最後の第21章はなんか、その前の第20章の終わり31節から読むと、少し付け足しのような書き方だなぁ。とにかく、後半クライマックスを少しづつ読んでも何であるから、いきつつ戻りつつ読んでみましょう。トマスさんが出てきて、脱線のところから。
◆今から考えてもかなりの常識人のように見えるトマスさん(こういう人、実は僕は好きなんだな、だって結論から言えば、イエスからキリスト者でなくても知っているとても有名な聖句を引きだしたのだから。それに、音楽の父と言われた大バッハが指導音楽家となったのがライプチィッヒの聖トマス教会で、この教会の名前はこのトマスさんからなの。)僕はバロック音楽、バッハさんも好きだからうれぴーなのだ (おい、なんか今回はおかしいぞ?) で、もとい ヨハネ伝第20節24~29節まで長いけど読んでみよう。口語訳( )内は節。
◆(24)12弟子の一人で、デドモとよばれているトマスは、イエス(復活の)が来られたとき彼らと一緒にいなかった。(25)他の弟子達が、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うとトマスは彼らに言った。「わたしはその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさしいれてみなければ、決して信じない」。(26)八日の後、イエスの弟子達はまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスが入ってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。(27)それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばしてわたしの脇にさしいれて見なさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(28)トマスはイエスに答えて言った。「わが主よ。わが神よ」。(29)イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
◆最後の句がとても有名なの。それで、皆さん。トマスさんはこの体験が事実であったことを身をもって証し(証明)したのだ。この体験でイエスのことをインドの国まで伝えたのがこのトマスさんなのだ(と言われている)。・・・(次回、もう少し) 

世界のベストセラーを読む(104回目)

2016-08-21 21:23:41 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
ヨハネ伝(字数削減で、以降同じ)第14章に入ってます。トマスさんが出てきましたので脱線。疑い深いと言われたトマスさんの弁護。その前にこの章をよく読んでみます。前にも書きましたが、第6章当たりまででヨハネさんはほぼイエスの言われることの大半は語られていて、その繰り替えし、芯のところは具体的に同じ内容のことを言ってますね。
◆ここ、イエスの言葉を少しまとめます。
時が来た(十字架にかかる)。わたし(イエス)は、父の元へ帰る。皆(弟子orイエスを信じた人の為に)の住まいを用意しに行く。わたしを見たのは父を見たのである。信じられねば”わざ”によって信じぜよ。わたしは見えなくなるが真理の霊を送る。それは、いつもあなた方とおられるように父がなさる。わたしはみんなのもとに帰ってくる。わたしが父とおり、みなはわたしと共におり、わたしの戒めを守るものはわたしを愛する者であり、父に愛されるであろう。わたしもその人を愛しその人にわたしを表す。わたしが話すのは父が話すのである。父がわたしの名によって使わされる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことをことごとく思い起こさせるであろう。ここで、先の回にも書きましたが(14:31)は、第18章の前、第17章の最後26節に持って行ってもいいのではないかと書いた。その方がすっきりするな。
◆ところで、イエスはどういう動きをされたんだろうね。十字架に掛かられて復活され、少しは地上におられ(すぐにはマグダラのマリアにわたしはまだ登ってないから触らんといてと言われた)その他、エマオの途上の弟子にも復活後すぐ会われたり、しばし、地上におられた。(仏教で言うところの49日間だなきっとその後、聖霊は50日目ペンテコステとなる)→その後、天に昇られ、降りてきて弟子達に会われる? と言っておられるようだが、この辺は14章だけでは分からないね。再び会うのを”真理の霊”をわたし(イエス)と同じものと呼んでいるかも知れないから。この間、何度かはイエスは天に行かれたのかしら? 天に帰られてから具体的には又、戻られたときちんと読めそうなところはないな。
◆結論、イエスのお奨め。わたしを愛せよ、わたしの戒めを心に抱いてこれを守れ。(15:12)わたしの戒めはこれである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(103回目)

2016-08-20 22:03:24 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回は後半、すごい脱線入ります。
トマスさんが出てきたからという訳では無いけど。
◆ヨハネによる福音書の第14章に入りましたよ。イエスの弟子、疑い深いトマスさんは復活されたイエスが、弟子達の前に現れた時、いなかったのね。あとで、トマスに復活したイエスが来たよと言っても全然信じなくてさ。「おれ、自分の指をイエスの傷口につっこんで見るまでしないと信じないぞ!」と言ったことから、今まで”疑い深いトマス”と言われることになった。かなり、当たりまえの常識人だった訳。イエスが天の父の所へ場所を用意しに帰ると言ったときも、「どこ行くの、私たちには分かりません、どうしたらその”道”がわかるのでしょう。」と問う。ここで、知られている有名な聖句となっている言葉がイエスの口からでる。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは父のもとに行くことはできない。」(良く知られているのは前の句ね!)
◆さて、イエスのこの言葉だけでも日本人である僕らは、ちょっと待ってくれよとなりませんか? 今までは何とはなく読んできたけどさ。父のもとへとは天国のことでしょ。そこに、他の宗教の人は行けないの? 日本だって仏教があるでしょう! こちらは極楽と言われてますけど。どう思いますか? どうして、十字架にかけられたイエスという人神を信じないと其処には行けないぞと言われるの? もう、それしかない!とい感じなのね。天地万物を創造された方であれば、その人々が歴史で天の父の選ばれた民族から脱線している者であっても永遠の命など信じて平和に暮らしている人は沢山いるのではないのですか? 第一、そちらさんは争いも好きなようだし・・・。
◆さて、仏教も勉強するならとことん勉強するとよろしいかと思いますね。みんなが行くから怖くないという、伝統しがらみの言い伝えの何とはなくでなくてね。お坊さんが読まれるお経とやらも読まれてみるといいですね。ご自分の家の、ご自分が(基督者でなければ)そこに葬られるであろうお寺さんのね。今は大きな書店では各宗派で読まれているお経は販売されているところがあります。お経のテープまで。そうネットでも聞ける。この時期、ご先祖供養にもなりますしね。僕の実家は、空海さんの真言宗なのです。僕は空海さん好きなのですね。中国(唐)に仏教学びにいって当時の基督教にも触れていることを知ってますます、このスーパーエリート坊さんが好きになったのです。
◆ところで、イエスを通らなければ父のもとは行けないかと問われると、「そうです!」という答えになりますねぇ。イエスが言われているのは、読まれている今のあなたのその身とその魂についてのかなり具体的な復活にかかわる大切なことなのです(と僕は思っている)。・・・

世界のベストセラーを読む(102回目)

2016-08-19 19:31:42 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 口語訳。ルターさん曰く、福音書はヨハネ伝。
イエスが言われた”この時(十字架にかかる)”が来ている・・・。そして、イエスは、新しいいましめを言って残す。第三章には大切なイエスの新しい戒め。(13:34)
「互いに愛しあいなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
◆そして、ペテロへの三度目の否認の予告(13:38)。ペテロが三度もイエスを否認するであろうとの予告は、イエスが捕縛された後に現実となった。(18:17)(18:25)(18:27)。後に書かれている第21章がこれに修正をかけているような三度に三度の対応の書き方なのね。他の福音書では、ペテロはイエスの鶏が鳴く前に三度、(イエス)を知らないというであろうとの予告どおりになったので、外にでておいおいと泣いたと記す。ペテロらしくてこの書き方は同感、賛成だ。
◇これの是正(修正)とは、復活後のイエスによって三度ペテロに確認されたことだ。そのことを第21章にヨハネは書いた。(21:15)(21:16)(21:17)。 「ヨハネの子、シモンよ。わたしを愛するか、わたしの羊を飼いなさい」と。三度もイエスに確認されたペテロ。これが三度目の正直の語源となった?。ここでの”愛”するかの言葉の書確認のやりとりの”愛”は書かれたギリシャ語のそれぞれ違う言葉で書かれているのでちょっと有名なの(後で)・・・さて、
◆ヨハネ伝第14章に入る。ヨハネ伝の四分の一程にもあたる告別説教は開始されている。
弟子たちの質問はほんとに現実的な書き方なのだが、トマスも(14:5)、ピリポも(14:8)もイエスの言ったことに質問をする。この質問は2016年の科学が進んだ現在でも、霊の世界、生身の現実の我々側から言えば大いなる当然の質問、しかし、霊の世界を語るイエスには疑問のない当然のこととなる。キリスト教の肝になる言葉なのだな、きっと。他の常識からも2016年の今、疑問を持つ奇跡に対してだね、ヨハネさんの群れはイエスに癒された人々の群れ、奇跡でもあり、イエスの”わざ”の証人者達の群れでもあって、動かしがたい事実がその群れにはあったことが、書いた当時の背景となっていたと考えられる訳です。その中で、この二人の弟子にこのような事があったと記録するのである。(14:5、14:8)
◆トマスの質問は、イエスからとても有名な言葉として知られている聖句を引き出した。
(14:6)「わたしは道であり、真理であり、命である。」
このトマスさんは、イエスが復活されて弟子達の前に現れたときいなかったのね。そんで、弟子達に復活されたイエスにわたしたちはあったと言われた時、かなりリアルな反論をしたのだ。「わたしはイエスの十字架上での傷に指を差し込んでみないと(復活したことなど)信じない」と言ったのだ。・・・ 

世界のベストセラーを読む(101回目)

2016-08-18 18:44:07 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 
イエスの12弟子の内、福音書を書き少なくとも確実に最後の晩餐にいた弟子はヨハネさんということになるね。取税人のマタイさんはマタイ伝を書いたと言われるがはっきりしないしな。その中に当人と確実に分かる言葉を入れ込んでいないからだ。しかし、ヨハネさんはそうではないぞ。自分のことをヨハネ伝の中で、もうひとりの弟子(20章、他に)、イエスにもっとも愛された弟子などと書いているからね。最後の晩餐にもダビンチの絵によれば、というかイエスの胸に寄りかかってなどと書かれているからイエスの隣にいて食事をしていたのは確実なのだ。その場の証人であるにもかかわらず、なぜ、その時のユダの言動を詳しく書いてないのだろうね。(当時の食事は絵のようなテーブル、イスではなくて横に寝そべっていただくのが普通だったらしいよ)で、その時の会話・・・
◆他の福音書マタイ伝などは、こうだ(マタイ26:25)イエスを裏切ったユダが答えていった「先生、まさかわたしではないでしょう」。イエスは言われた「いや、あなただ」。・・・ あれか、これかと思いあぐねている内にどんと先を読まれて決断してしまった感じだな、ユダはこの会話から。”サタン”と言う言葉はこの近辺には書かれてない。マルコ伝は、”裏切る人”と書いているだけで”ユダ”の名前がない。ルカ伝も”裏切る者がわたしと一緒に食卓に手を置いている”と書かれていてユダの名前がない。ただ、(ルカ22:3)”そのとき、12弟子のひとりで、イスカリオテとよばれていたユダに、サタンが入った”とは記されている。で、ヨハネ伝は先の回に書いたようにイエスに「なすべきことを、すぐなせ」とユダは言われて行動を起こしたとある。
◆天地創造来から、堕落した天使である悪魔は被創造物の中で神の創造された最高傑作である人間への死の介入をせしめて来たわけだ、病や困窮、殺人などで。2016年の今もそうである。(創世記第3章15節の意味を考えよ。)物語の中では、今やサタンは、12弟子の中まで入りこみ、他の福音書にペテロさんもイエスに「サタンよ引き下がれ」と一喝されているところがあるし、とうとうユダに入りこんで最後のあがきの挑戦を神にけしかけた訳だ。イエスはペテロにこういう場面がある。(ルカ22:31)「シモン(ペテロのこと)、シモン、見よ、サタンはあなた方を麦のようにふるいにかけることを願って許された。」この言葉は、この時、霊の世界では非常事態、サタンから神への挑戦状が差し出されていた訳だ。その世界が見えない我々はこの言葉を軽視してはいけない。イエスがユダに語った言葉は、ユダに入り込んだサタンに語った言葉ということになるのだ。
◆最長老のヨハンさんは、先に書かれていた福音書の断片も知っていたと思うよ。しかし、自分が最もイエスに愛されていたし、現場報告出来る証人者(イエスの復活後の空の墓も確認した)でもあったから独自に福音書を書いてしかるべしとの意向が、ヨハネとその群れに当然出てきて1世紀近くあとに書かれたものだと考えられるのね。(だから他の三つの共観福音書と毛色が少しちがう。)”善をもて悪に勝ちなさい”。ヨハネさんはきっとイエスが送られた真理の霊に満たされ、その群れの一致をひたすらイエスの最後の告別説教の中に求め、群れの一致と周囲のユダヤ人達の恐怖へも共なるイエスの言に励まされてその信仰を将来につなげようと心から願ってその思いで書いていったのだと思わされるのだ。闇に落ちたと言われるユダを思う以上にその時の霊の戦いの方ををヨハネは強く思い描いて文字には表されなかったのではないかと僕には思われてしかたがないのだ。・・・Ω