「富岡製糸場」は明治時代に最先端技術を投入した最新鋭工場でした。明治政府が描く日本の新産業振興の牽引役を担ったハイテク工場の代表格です。明治時代に描かれた日本の新成長戦略の「富国強兵」施策を具現化したイノベーション創出の仕掛けの中身を具体的に知る機会になりました。
群馬県富岡市の中心部にある富岡製糸場の跡地は、ここ20年間にわたって、結構近くを通り抜けながら、いろいろな理由で一度も立ち寄ったことがない場所でした。富岡市の市街地の周囲にバイパス道路ができ、市の商業地区の中心地がバイパス側に移ったことが、市の元の市街地を通らなくなった主な理由です。バイパス道路には、最近勢いを増している家電量販店や大型スーパー、携帯電話機販売店などが出店し、ここだけで主な買い物が済む状況になっています。
7月18日に富岡製糸場を訪れてみて分かったことは、当時投入された最新技術は製糸技術だけではなく、一連の連立方程式を解くのに必要な多彩な要素技術だったことでした。明治時代の日本に必要だった一連の要素技術が育ったことで近代産業が育つ産業基盤が育ったことを学びました。
一つの要素技術があっても、それを支えるいろいろな要素技術がないと新産業が育成されない点は、現在でも変わりません。
富岡製糸工場は明治5年(1872年)に稼働し始めました。当時はフランス製の300人繰(く)りの最新繰糸システムを導入し、世界最大の生産能力を誇ったそうです。だだし、フランスの最先端技術を単純に導入し、生産システムを設置しただけではなかった点がポイントです。
蚕の繭(まゆ)から生糸を機械システムによってつむぐには、まず動力源が必要です。当時の最新技術だった蒸気エンジンの通称「ブリュナエンジン」(5馬力=たぶん5PS)をフランスから導入し、蒸気エンジンの往復運動を、ロッドとカサ歯車を組み合わせた動力伝達システムによって繭から糸をつぐむ動きに変換しました。動力伝達の機械技術が必要となり、その動力伝達システムが設計され作製されました。これによって、歯車やロッドなどの主要な機械部品を学ぶ機会を得ました。
同時に蒸気エンジンを動かす蒸気ボイラーもフランスから導入されました。蒸気をつくる熱源となる燃料の石炭は近くの群馬県吉井町から採掘したそうです。当然、石炭を蓄える設備も製糸場内に設けました。
こうして、工場の中核となる生産システムはメドが立ちました。この生産システムを雨風から守る工場の建屋の建設にも最先端技術が必要になりました。建屋は“木骨レンガ造り”が採用されました。レンガは近くの甘楽町の福島という場所にレンガを焼く窯をつくって生産したそうです。埼玉県深谷市出身の瓦職人にレンガづくりを教えた結果、数10万個のレンガが焼かれたそうです。最近のテレビ番組の中で、深谷市がレンガ窯で栄えたとの情報を知りました。深谷市にはレンガ製の煙突などが残っているそうです。富岡製糸場の建設の波及効果だったとしたら、明治政府が目指した新産業興しの一つの成果かもしれません。現在、深谷市は「レンガのまち深谷」のキャンペーンを展開しているそうです。
当時のレンガはやや低温で焼かれているため、“焼きがやや甘く”、機械的性質などの性能がやや劣るそうです。富岡製糸場では、レンガはフランスの「フランドル工法」で積まれて壁をつくりました。レンガ同士はしっくい(石灰など)を“目地”につかって接合しました。このレンガ壁は間仕切りとしての役目を果たしています。床もレンガを敷き詰めてつくったそうです。レンガの応用技術も伝播(でんぱ)したようです。
工場の力学構造体は木を組み合わせた“木骨”です。木材は近くの妙義山(現富岡市内)から杉を、群馬県吾妻郡の中之条町から松を切り出して木材に加工し、トラス構造(三角形の構造)などを組み上げたそうです。生糸を製糸した繰糸場の内部を見学すると、木材をトラス構造に組み合わせた屋根の躯体(くたい)を見上げることができます。
工場の構造体の基礎をつくる礎石は群馬県甘楽町(かんらまち)の連石山(れんせきざん)から切り出した砂岩を利用したとのことです。礎石の上に木骨で構造体をつくり、レンガ壁を組み込みました。明かり取りのガラス窓を構成するガラスと鋼製枠は輸入品を採用しました。屋根は瓦拭きと、日本の要素技術を採用しました。食料品などを蓄える地下室はレンガ壁づくりだそうです。さまざまな部分で、先進国のフランスの要素技術と日本の要素技術を巧みに組み合わせて実現しています。必要な要素技術を決めるために、必要な技術体系を得るための連立方程式を解いた結果の和洋折衷でした。
このほかにも、石炭を燃やした際の排煙を出す煙突や、生糸を洗う清水を蓄える“鉄水槽”などをつくるために、当時の製鉄技術などを育成したようです。
必要は発明の母です。「横浜製造所」で鉄板を製造したとのことでしたが、この横浜製造所について質問してみましたが、説明員は「分からない」との答えでした。
明治政府が産業振興の切り札として、生糸の模範製糸工場を富岡市に設けた理由は、群馬県内などから繭を集めるのに適した地の利があったからでした。富岡市周辺には、現在でも桑畑があちこちにあります。また、生糸を洗う冷たい清水が手に入る場所だったことも決め手の一つになりました。現在の富岡製糸場は代官所の跡地としてまとまった土地を提供できることも決め手の一つだったそうです。
工場建設は明治4年(1871年)から始まり、翌年7月に完成しました。建屋と生産システムは手当できました。次は生産要員の確保です。当初は、人材確保に苦労したそうです。富岡製糸場の建設はフランス人のポール・ブリュナー氏のグループにプロジェクト・マネージメントを依頼し、基本設計と建築を頼みました。工場建設を指揮するフランス人技術者たちは、食事の際に赤ワインを楽しみました。当時の日本人は、この赤ワインを人間の血と勘違いしました。先進技術者のフランス人は「人間の生き血を飲んでいる」との噂が流れ、最初は女性の工員がなかなか集まらなかったそうです。
初代工場長は自分の14歳の娘を女性工員の第一号に採用し、この誤解を解く努力をしたそうです。当初の計画から3カ月遅れで、工場の操業開始にこぎ着けたそうです。文化の違いから誤解を招く典型例のようなエピソードです。文化の違いは説明し合うことで克服するしかないようです。
明治6年(1873年)1月時点で404人の女性工員が確保され、製糸の操業が本格的に始まりました。全国から富岡製糸場に集まった女性工員は、その後、地元の製糸工場などに戻って先進技術者として活躍したそうです。
富岡製糸場が官営で創業された理由は、明治初期に生糸が日本の主要輸出品になった際に、生糸の輸出量が急に増えたため、各地の生糸の品質がバラつき、日本の生糸の評判を落しました。生糸の優れた品質を維持するために、官営の大工場の製糸場をつくり、輸出品を確保するために運営されました。明治初期も輸出主導の国だったようです。
興味深いのは、当初は外国人の先進技術者を指導役として招聘しましたが、明治8年(1875年)に日本人が経営するように切り替えられたことです。この結果、生糸の高品質は実現できたのですが、黒字経営は実現できなかったようです。官営工場が経営下手なのは、この時代でも同じだったようです。このため、明治26年(1893年)に三井家に公開制度で払い下げになったそうです。その後、製糸大手の片倉工業に譲渡されました。民営化され、工員の技術教育などを施し、働くモチベーションを高めたとのことです。人材育成がイノベーション創出のポイントである点も、明治時代から同じようです。高校の日本史の教科書には「八幡製鉄所などの官営工場がつくられ、民間に払い下げられた」との記述はありますが、「黒字経営にするのに苦心した」とは書かれていなかったと記憶しています。
今回、富岡製糸場を見学して感じたことは、展示の見せ方の下手さや説明文の不具合です。現在、富岡製糸場は富岡市が所有しています。「見学させるだけの安易な発想に終わっているな」と感じた部分がいくつかありました。見学者がどう考えるかなどの反応を想定していない産業遺跡の説明がいくつかあります。見学者の知識レベルを想定した説明文では無いなと思う個所がいくつかありました。見学者に最低限伝えたいメッセージが決まって無く、詳しい説明が羅列されているだけです。自分で学びとったことを自分なりにまとめ上げるやり方です。“文明遺産”まで消化された文化にはなっていないと思いました。
同産業遺産は、ユネスコの世界遺産に登録されることが一番の目標なのでしょうか。富岡市の“街興し”の手段との発想しか頭にないのかと感じました。「訪れる見学者に分かりやすい説明の工夫を地道に増やすことが大切ではないのかな」と感じました。これも日本では科学・技術コミュニケーション教育がまだ未定着なことの証拠かなと、やや辛口な思いを持ちました。
当時の生糸の製糸手法は、隣の安中市にある碓氷製糸農業協同組合が守っているそうです。昔ながらの伝統を守っているようです。
群馬県富岡市の中心部にある富岡製糸場の跡地は、ここ20年間にわたって、結構近くを通り抜けながら、いろいろな理由で一度も立ち寄ったことがない場所でした。富岡市の市街地の周囲にバイパス道路ができ、市の商業地区の中心地がバイパス側に移ったことが、市の元の市街地を通らなくなった主な理由です。バイパス道路には、最近勢いを増している家電量販店や大型スーパー、携帯電話機販売店などが出店し、ここだけで主な買い物が済む状況になっています。
7月18日に富岡製糸場を訪れてみて分かったことは、当時投入された最新技術は製糸技術だけではなく、一連の連立方程式を解くのに必要な多彩な要素技術だったことでした。明治時代の日本に必要だった一連の要素技術が育ったことで近代産業が育つ産業基盤が育ったことを学びました。
一つの要素技術があっても、それを支えるいろいろな要素技術がないと新産業が育成されない点は、現在でも変わりません。
富岡製糸工場は明治5年(1872年)に稼働し始めました。当時はフランス製の300人繰(く)りの最新繰糸システムを導入し、世界最大の生産能力を誇ったそうです。だだし、フランスの最先端技術を単純に導入し、生産システムを設置しただけではなかった点がポイントです。
蚕の繭(まゆ)から生糸を機械システムによってつむぐには、まず動力源が必要です。当時の最新技術だった蒸気エンジンの通称「ブリュナエンジン」(5馬力=たぶん5PS)をフランスから導入し、蒸気エンジンの往復運動を、ロッドとカサ歯車を組み合わせた動力伝達システムによって繭から糸をつぐむ動きに変換しました。動力伝達の機械技術が必要となり、その動力伝達システムが設計され作製されました。これによって、歯車やロッドなどの主要な機械部品を学ぶ機会を得ました。
同時に蒸気エンジンを動かす蒸気ボイラーもフランスから導入されました。蒸気をつくる熱源となる燃料の石炭は近くの群馬県吉井町から採掘したそうです。当然、石炭を蓄える設備も製糸場内に設けました。
こうして、工場の中核となる生産システムはメドが立ちました。この生産システムを雨風から守る工場の建屋の建設にも最先端技術が必要になりました。建屋は“木骨レンガ造り”が採用されました。レンガは近くの甘楽町の福島という場所にレンガを焼く窯をつくって生産したそうです。埼玉県深谷市出身の瓦職人にレンガづくりを教えた結果、数10万個のレンガが焼かれたそうです。最近のテレビ番組の中で、深谷市がレンガ窯で栄えたとの情報を知りました。深谷市にはレンガ製の煙突などが残っているそうです。富岡製糸場の建設の波及効果だったとしたら、明治政府が目指した新産業興しの一つの成果かもしれません。現在、深谷市は「レンガのまち深谷」のキャンペーンを展開しているそうです。
当時のレンガはやや低温で焼かれているため、“焼きがやや甘く”、機械的性質などの性能がやや劣るそうです。富岡製糸場では、レンガはフランスの「フランドル工法」で積まれて壁をつくりました。レンガ同士はしっくい(石灰など)を“目地”につかって接合しました。このレンガ壁は間仕切りとしての役目を果たしています。床もレンガを敷き詰めてつくったそうです。レンガの応用技術も伝播(でんぱ)したようです。
工場の力学構造体は木を組み合わせた“木骨”です。木材は近くの妙義山(現富岡市内)から杉を、群馬県吾妻郡の中之条町から松を切り出して木材に加工し、トラス構造(三角形の構造)などを組み上げたそうです。生糸を製糸した繰糸場の内部を見学すると、木材をトラス構造に組み合わせた屋根の躯体(くたい)を見上げることができます。
工場の構造体の基礎をつくる礎石は群馬県甘楽町(かんらまち)の連石山(れんせきざん)から切り出した砂岩を利用したとのことです。礎石の上に木骨で構造体をつくり、レンガ壁を組み込みました。明かり取りのガラス窓を構成するガラスと鋼製枠は輸入品を採用しました。屋根は瓦拭きと、日本の要素技術を採用しました。食料品などを蓄える地下室はレンガ壁づくりだそうです。さまざまな部分で、先進国のフランスの要素技術と日本の要素技術を巧みに組み合わせて実現しています。必要な要素技術を決めるために、必要な技術体系を得るための連立方程式を解いた結果の和洋折衷でした。
このほかにも、石炭を燃やした際の排煙を出す煙突や、生糸を洗う清水を蓄える“鉄水槽”などをつくるために、当時の製鉄技術などを育成したようです。
必要は発明の母です。「横浜製造所」で鉄板を製造したとのことでしたが、この横浜製造所について質問してみましたが、説明員は「分からない」との答えでした。
明治政府が産業振興の切り札として、生糸の模範製糸工場を富岡市に設けた理由は、群馬県内などから繭を集めるのに適した地の利があったからでした。富岡市周辺には、現在でも桑畑があちこちにあります。また、生糸を洗う冷たい清水が手に入る場所だったことも決め手の一つになりました。現在の富岡製糸場は代官所の跡地としてまとまった土地を提供できることも決め手の一つだったそうです。
工場建設は明治4年(1871年)から始まり、翌年7月に完成しました。建屋と生産システムは手当できました。次は生産要員の確保です。当初は、人材確保に苦労したそうです。富岡製糸場の建設はフランス人のポール・ブリュナー氏のグループにプロジェクト・マネージメントを依頼し、基本設計と建築を頼みました。工場建設を指揮するフランス人技術者たちは、食事の際に赤ワインを楽しみました。当時の日本人は、この赤ワインを人間の血と勘違いしました。先進技術者のフランス人は「人間の生き血を飲んでいる」との噂が流れ、最初は女性の工員がなかなか集まらなかったそうです。
初代工場長は自分の14歳の娘を女性工員の第一号に採用し、この誤解を解く努力をしたそうです。当初の計画から3カ月遅れで、工場の操業開始にこぎ着けたそうです。文化の違いから誤解を招く典型例のようなエピソードです。文化の違いは説明し合うことで克服するしかないようです。
明治6年(1873年)1月時点で404人の女性工員が確保され、製糸の操業が本格的に始まりました。全国から富岡製糸場に集まった女性工員は、その後、地元の製糸工場などに戻って先進技術者として活躍したそうです。
富岡製糸場が官営で創業された理由は、明治初期に生糸が日本の主要輸出品になった際に、生糸の輸出量が急に増えたため、各地の生糸の品質がバラつき、日本の生糸の評判を落しました。生糸の優れた品質を維持するために、官営の大工場の製糸場をつくり、輸出品を確保するために運営されました。明治初期も輸出主導の国だったようです。
興味深いのは、当初は外国人の先進技術者を指導役として招聘しましたが、明治8年(1875年)に日本人が経営するように切り替えられたことです。この結果、生糸の高品質は実現できたのですが、黒字経営は実現できなかったようです。官営工場が経営下手なのは、この時代でも同じだったようです。このため、明治26年(1893年)に三井家に公開制度で払い下げになったそうです。その後、製糸大手の片倉工業に譲渡されました。民営化され、工員の技術教育などを施し、働くモチベーションを高めたとのことです。人材育成がイノベーション創出のポイントである点も、明治時代から同じようです。高校の日本史の教科書には「八幡製鉄所などの官営工場がつくられ、民間に払い下げられた」との記述はありますが、「黒字経営にするのに苦心した」とは書かれていなかったと記憶しています。
今回、富岡製糸場を見学して感じたことは、展示の見せ方の下手さや説明文の不具合です。現在、富岡製糸場は富岡市が所有しています。「見学させるだけの安易な発想に終わっているな」と感じた部分がいくつかありました。見学者がどう考えるかなどの反応を想定していない産業遺跡の説明がいくつかあります。見学者の知識レベルを想定した説明文では無いなと思う個所がいくつかありました。見学者に最低限伝えたいメッセージが決まって無く、詳しい説明が羅列されているだけです。自分で学びとったことを自分なりにまとめ上げるやり方です。“文明遺産”まで消化された文化にはなっていないと思いました。
同産業遺産は、ユネスコの世界遺産に登録されることが一番の目標なのでしょうか。富岡市の“街興し”の手段との発想しか頭にないのかと感じました。「訪れる見学者に分かりやすい説明の工夫を地道に増やすことが大切ではないのかな」と感じました。これも日本では科学・技術コミュニケーション教育がまだ未定着なことの証拠かなと、やや辛口な思いを持ちました。
当時の生糸の製糸手法は、隣の安中市にある碓氷製糸農業協同組合が守っているそうです。昔ながらの伝統を守っているようです。