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この何日か、天気が続き、夕方には畑や庭への水撒きを行っていたので、作物も雨を待っていた。まさに干天の慈雨か・・・と思いきや、雷が鳴り出し、雷鳴と雷光が眼前で光りと音のショウを始めた。
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阿蘇南外輪山中腹にあるわが家、天気も激変する。雷は地響きがするくらいの激しさ。書斎で堤克彦先生(熊本の県立高校の社会科教諭)の書いた「『公』の思想家 横井小楠」(熊本出版文化会館)を読んでいたのだが、あまりの雷鳴と豪雨に恐れをなして、母屋に走った。妻は女の身、心細く一人泣き震えているのではとここ一番「男気」を見せようと意気込んだ。しかし、呼んでも返事がない。寝室を見るとそのか弱き細君、ベッドで平然と寝ているではないか御見それしました、やはり女は年を取ると豪傑になる。
さて、今日は「龍馬伝」だ。
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今読んでいる11章、12章が小楠と春嶽、海舟、龍馬との関係。龍馬とは文久二年から慶応元年までの間に都合六回会見している。その多くは海舟の使いに会いにきているのだが、最初に会う文久二年、小楠が尊王攘夷論から開国論へ転換した頃、肥後で彼のあまりの鋭才と舌鋒の激しさ故に疎外され続けていた小楠を越前藩松平春嶽登用しブレーンに抜擢され活躍を始めていた頃に当たる。竜馬も土佐勤王党、ばりばりの攘夷派だったころ横井の存在を聞きつけて岡本健三郎と斬りに来た。ところが、龍馬と海舟との出会いの如く、小楠の話を聞いて「旧知の如き『断金の交わり』」(第10章133ページ)となったのです。
海舟の横井評は有名だが、「氷川清話」にこうある。「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ。・・・横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配していたら、はたして出てきたわい」
海舟は頭の切れる幕末を代表する開明派、若い頃剣の道で練り上げられた魂胆故に西郷との必至の攻防によって、江戸城の無血開城を成し遂げた人物。荒れる太平洋を咸臨丸の艦長として、実は船酔いでほうほうの体ではあったもののアメリカに渡っている。その先見性は当代随一だと思う。この海舟に同じような経過で出会い、深く感銘した龍馬は海舟をずっと師と仰いでいる。そして肥後の横井にも私淑し、三度沼山津の四時軒を訪れている。
しかし、慶応元年、この四時軒で長州問題で意見が対立して、決別する。
小楠は幕府の征長政策を支持するも、龍馬はこの時既に幕府に見切りをつけ、倒幕のための大連立(どこかで聞いたような・・・)すなわち薩長連合を目論んでいたので、対立したというのだ。
ついに龍馬は口にする。
「世人皆子(小楠)を称して海内の大家とす。我も亦常に渇仰敬慕せり、然るに今日の論説の如き雇人にても望まざるところなり。」
そして小楠、怒髪天を衝き、「汝再び我を訪うこと勿れ」と言わしめる。
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但し、流石に度量の大きさが違う。龍馬はその後も小楠の存在を忘れず、倒幕後の新政府構想において参議候補として推挙している。
こういう視点で「龍馬伝」を見ていると、実に面白い。