旧統一教会の田中会長が記者会見を行った。その際、信者それぞれでは、自民党を中心とした政治家を応援をしたということがあるのだろうが、「法人(旧統一教会)」としては何もしていないという趣旨の説明をしていた。つまり旧統一教会としての組織ぐるみでの政治家との関係はないという意図である。信者と議員との関係は「自己責任」だという表明である。
一方、自民党の対応も同じだ。党としては旧統一教会とは関係ない。各議員がそれぞれ関係をもっていたので、各議員が「自己責任」で説明しなさいと言っている。
一見筋が通っているように見える。しかしこれはなんでもかんでも個人の問題にすり替えてしまい、セーフティネットをはっただけにすぎない。
近年、このような「自己責任」がはびこっている。
新型コロナ対策も自己責任になりつつある。老後の資金も年金にたよらず自己責任にだと言い始めた。年金が足りなくなるから投資しなさい。しかし投資で成功するか、失敗するかは自己責任だ。そもそも新自由主義経済と言うのはすべての経済活動は自己責任だという考え方だ。そして選挙も自己責任だ。選挙で選ばれた自民党政権が何をしようと誰も文句を言えまい。このように「自己責任」という言葉がいいように使われているのだ。
それはそれで一理ある。しかしそこの大きなごまかしがあるのも間違いあるまい。そもそも日本は伝統的な「村社会」であり、組織と個人の境界があいまいな社会である。日本語の「ウチ」の示す範囲が自由自在だ。だから組織は多くの場合、「ウチ」に含まれる。新型コロナ対策は当初は国家が責任を持つものであった。突然自己責任だと言われても困るし、年金問題もそもそもが国が責任をもっていた。今さら自己責任だとするのはあきらかにごまかしなのだ。
突然「自己責任」を言い始めた場合、それはなんらかのごまかしである場合がほとんどである。