とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

『吾輩は猫である』の読書メモ①「第一章」

2022-12-28 09:39:41 | 夏目漱石
 『吾輩は猫である』を読んだ。第一章だけは国語の教科書で読んだような記憶がある。おそらく中学校だった。おもしろかったという記憶だけが残っている。第二章以降、読もうとしたことはあったが、文字だらけですぐに挫折した。この年になり、再度挑戦した。様々なことを考えた。この小説についてもっと深く考察したいと考えている。

 そこで、さらに再読しながら、気になったことをメモしていきたい。

 今回はその1回目。第一章を読んでの雑感。
 
【猫の視点】
 夏目漱石自身をモデルとしたと思われる人物である「主人」(「くしゃみ先生)のことだが、第一章ではくしゃみ先生という名前はまだ出てきていない。)と、その家族、そして「主人」の友人を猫が描写するという形をとっている。

 この方法によって夏目漱石は自分自身のことを客観的に描こうとしていることが伺われる。自分を描くということは、題材としては一番書きやすい。しかし自分の思い込みで描いたのでは自分勝手な解釈で自分を描くことになる。近代小説において必要なのは客観的な視点である。自分の視点で自分自身を描けば、近代的な客観的な視点を失ってしまう。しかも恥ずかしい。そこで猫の力を借りたということなのだろう。

 しかし生まれたばかりの猫が人間社会のことをそんなにわかっているはずがない。猫がそんなに理屈っぽく考えるはずもあるまい。

 しかしそれを非難するような小説でもない。これは気楽に自分を使って遊んでみた小説なのだ。言ってみれば落語の感覚の小説である。「セリフ」があり、その「セリフ」のやり取りについて批評する「語り」がある、そんな小説なのだ。いい加減だから理屈とは合わないようなちょっとしたずれが生じる。それを真剣にとらえる読者もいない。だからこそ楽しめるのである。

【写生】
 夏目漱石をモデルにした「主人」が猫を描写する場面がある。絵としての描写である。猫は絵のモデルとしてじっとしていながら、「主人」を描写している。この両方向性はおもしろい。絶対的な視点はないということなのかもしれない。

【猫の世界】
 「吾輩」はただ単に人間を描写しているだけではない。自分も活動する。「車屋の黒」との会話はたわいのないものだ。鼠を捕まえたことのない「吾輩」もけっこう意地っ張りだ。そこには語り手の個性も描かれている。

コメント
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