とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

ベネッセ

2018-12-19 18:40:20 | 教育
 今日の朝日新聞に次のような記事が掲載されていた。

「『文科省、ベネッセに肩代わり依頼 416万円、識者招き』

文科省からベネッセ側へ送られたメールの添付ファイル。「謝金」として1日あたり50万円、計250万円が記され、「ベネッセ様からお支払いいただきたい額」が示されていた。

 文部科学省が昨年、大学の評価のために米国から2人の委員を招いた際、1日あたり約50万円の謝礼を求められたものの、国の基準の約2万円しか支出できず、差額分をベネッセホールディングスの関連法人が負担していたことが関係者の話で分かった。文科省の担当者からはベネッセ側に対し、渡航費の一部も含めて計約416万円の支出を求めるメールが送られていた。文科省は内部監査の結果、「強要も便宜供与もなく問題なかった」と結論づけたが、識者は「癒着を生む恐れがある構図だ」と指摘する。」


 近年、教育界にベネッセの影響力は大きくなりすぎている。たとえば小中学生の学力試験はベネッセがおこなっている。国が認めた独占形態となっているのである。また高校においては、「e-portfolio」の導入に際して影響力を持ち、自社の製品を購入すると有利になるような誘導的な営業をおこなっている。また2020年度より、英語検定試験を大学入試に活用することになったが、「GTEC」というこれまでだれも知らなかった英語検定試験を作り、それを高校に強引に売り込みにかかっている。この「GTEC」は安さが魅力のために多くの学校が導入せざるをなくなっている。「学びの基礎診断」という試験を導入して、ベネッセの基礎力模擬試験を導入させるように強引に売り込みにかかる。さらには新テストにおける国語の記述式問題はベネッセ社がつくるというまことしやかなうわさが流れている。採点もベネッセがやるという。最後のはうわさだけかもしれないが、このようなうわさが流れるだけでも影響は大きい。いずれにしてもベネッセの商品を高校が導入せざるを得ないような教育改革が進んでおり、そこに強引な営業活動もあり、高校の現場はベネッセの下請けのような状況にすでになっているのだ。しかもベネッセの営業は態度がでかい。いったい何様なのかという態度で高校にやってきては、競争心をあおり、焦らせ、強引な売り込みをするのである。やくざ商売のようにも思えてしまう。

 教育に民間が参入するのは悪いことではない。現状の教育界は旧態依然としていて改革が進まない。これは公務員体質であることが大きな要因であることは間違いない。しかし現状では大きな問題がある。それは次の通りである。

 ①民間の思惑は教育自体にあるのではなく、自社製品の売り込みにある。だから本来の目的がいつの間にか忘れ去られ、ゆがんだ方向に改革が進んでしまっている。例えば、英語の4技能を重視することは悪いことではない。しかし、それを民間の検定試験をどれでもよく受験し、その結果を入試に用いるというのは明らかに公平性がたもつことができない。しかも議論が成熟しないままなし崩しで進んでいる。英語の検定試験に関しては早くから反対意見が有識者から多かった。しかし、きちんとした議論なしに進んでいたのだ。初期の段階からこのような反対だらけの状態というのはこの改革がゆがんでいる証拠である。

 ②民間の参入といっても、多くのものがベネッセが独占状態であり、競争がはたらいていない。比較ができないので現場ではしょうがなくベネッセに頼らざるを得ない状況ができあがってしまっている。もはやベネッセの思うままである。これでは民間活用の意味がない。

 いずれにしても、ベネッセは特別な位置にあり、そのベネッセが文科省の肩代わりをしているとすれば、これは癒着である。もっと厳しい目でチェックをいれてもらいたい。

 教育改革は必要である。それに民間の力を借りるのはいいことだ。しかし、変革には混乱がつきまとう。どさくさにまぎれてもうけに走る企業があれば、真の改革はありえない。現状はゆがんだ状態にある。だからこそ、東大、京大、東北大などが、英語の民間試験を要求しないという結論に至ったのだ。真の教育改革になるように、もっと議論を深めてほしい。同時に、ベネッセは偉くなりすぎないでほしい。

 文科省はもっとしっかりしろ。

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劇評『日本の歴史』(12月16日世田谷パブリックシアター)

2018-12-18 18:57:56 | 演劇
作・演出=三谷幸喜
音楽=荻野清子
出演:中井貴一 香取慎吾 新納慎也 川平慈英 シルビア・グラブ 宮澤エマ 秋元才加

 本当にすばらしい舞台であった。脚本も、音楽も、役者もすべてが魅力的だ。決して難しい話ではない。しかし感動は深い。

 テキサスに移り住んだあるアメリカの家族の歴史が描かれ、それとオーバーラップするように日本の歴史が描かれる。家族も国も「因果」によって歴史が刻まれる。それは栄枯盛衰であり、ドラマがある。どんな人にも、どんな家族にも、どんな国にも歴史がある。その歴史はとてもいとおしいものであることが伝わってくる。三谷幸喜の人間賛歌である。

 私は『ガープの世界』と『グッドモーニングバビロン』という映画が好きである。少なくとも好きな映画ベスト5に必ず入る。どちらも難しい映画ではない。しかし人生の浮き沈みが描かれ、最後に言葉にならない感動が残る。その映画並みに感動した演劇だった。

 こういう演劇はロングランすべきである。
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あおり運転事件判決は裁判員裁判の良さが出た

2018-12-16 06:21:14 | 社会
 東名高速道路で2017年6月、「あおり運転」を受けた車の夫婦が死亡した事故で、自動車運転処罰法違反(危険運転致死傷)などの罪に問われた石橋和歩被告に対し、横浜地裁は懲役18年(求刑懲役23年)を言い渡した。「危険運転」が認定されるかが大きな争点として、注目されていたが、妥当な判決であったと思う。

 この判決、以前であれば法律の杓子定規な解釈しかできず、「危険運転」は認められなかったのではないかと考えられる。しかし、庶民感覚からしてそれはおかしい。その感覚が裁判員裁判になり、徐々に法律の解釈が変更されているような気がする。もちろん、日本は法治国家であり、あまりに法律の解釈が無理に変更されてはいけない。しかし、被告の行為は冷静に判断してもあきらかに許しがたい行為であり、法律の条文から考えても無理な拡大解釈ではあるまい。

 ただし、このような混乱がおきないように、はやく法律を改正すべきであることは言うまでもない。また、あきらかな無理な法律の拡大解釈はあってはならないということも言うまでもない。

 常識が通用する社会でなければ生きていたくない。
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不完全であると感じれば感じるほどわたしは、生きていると実感する。(ジュンパ・ラヒリ)(「折々のことば」より)

2018-12-13 07:50:45 | 折々のことば
 表題は今日の朝日新聞の「折々のことば」である。これについての鷲田清一さんの解説が次の通り。

 家ではベンガル語、外では英語で話して育ったインド系米国人の作家は、祖国もなく、二つの言語のはざまで「揺れたり、歪(ゆが)んだり、隠れたり」するその不確かなありようこそが、自分の存在であったと言う。その引き裂かれを、虚(むな)しさから自由へと反転させようと、彼女はイタリアに移住し、第三の言語で表現することを選んだ。随想集『べつの言葉で』(中嶋浩郎訳)から。

 生まれ育った土地のことばはその人の血となり肉となっている。これは方言でも当てはまる。大学時代とその後数年間、私は生まれ育った土地から離れ東京で暮らしていた。テレビやラジオの「おかげ」で東京弁にそれほど苦労はしなかったが、しかし、しゃべりなれていない東京弁は自分を見失うのに十分だった。今から考えれば「不完全」であったのだと思う。その後、生まれ故郷に近い場所に戻ってきた。しかし、やはり言葉は大きく違っていた。ここでも「不完全」なままだ。

 日本人の多くは「不完全」なまま生活をする。本当に祖国を失っている人とは比べようもないレベルではあるが、多くの人は「祖国」を失い、そんな中で自分の場所をつくろうと必死に努力をしているのである。 それでも本当の自分を見失っているのではないかという苦しみはつきまとう。

 ここにある「その引き裂かれを、虚しさから自由へと反転させ」るという発想は考えてもみなかった。私に勇気を与えることばである。
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「社会的共通資本は……利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない」(「折々のことば」より)

2018-12-12 19:15:17 | 折々のことば
 今日の朝日新聞『折々のことば』より宇沢弘文氏のことば

これに鷲田清一さんが続ける

 水や大気、森や河川といった自然環境と、道路や交通機関、水道や電力といった社会的インフラと、教育や医療、司法や行政といった制度資本は、誰の生活にも不可欠な基盤として「社会的共通資本」なのだと経済学者は言う。だからその管理・運営は、職業的専門家がその職業的規律に従って行動する独立の機構に「信託(フィデュシアリー)」の形で委ねられるべきだと。『社会的共通資本』から。

 今の日本はなんでもかんでも「経済」が優先される。水道もそうだし、教育もそうだ。経済界の思惑通り進んでいく。経済が重要であることは言うまでもない。しかし、一昔前は経済だけではないという正論がしっかりと主張されていた。今やそんな主張をする人間は廃除されるだけである。

 「社会の共通資本は利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない」というのは基本理念であるべきなのだ。そうでなければ、経済界が政治を牛耳ればその力を抑えることはできなくなる。実質上の独裁となる。そして今の日本はその状態に陥っている。
 
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