北タイ陶磁の源流考を中断して記している。多少なりともそれに関連した噺である。日本への環濠集落は稲作文化と共に大陸から伝来し、日本列島東部へと波及したと考えられている。しかし弥生・後期(2世紀後半から3世紀初頭)には、弥生時代の集落を特徴つける環濠が各地で消滅していく。この時期に、西日本から東海、関東にかけて政治的状況が変化したことを示すと云う。
これは魏志倭人伝が記す、「倭国大乱」と卑弥呼が共立されたこと、更には卑弥呼が亡くなったあと再乱し、台与をたてて王と為し国中遂に定まる・・・とある。時期は景初年代の記述がみえることから弥生後期(3世紀前半)のことで、環濠が消滅する時期に重なる。
総合研究大学院大学の藤原哲氏の論文によれば、弥生時代の環濠集落の祖形は韓国南部地域を源流とするのが妥当であると云う。江蘇・浙江や南国の島伝いが、どうなのか知る由もなく、ここでは朝鮮半島からの南伝説に従っておく。ここで藤原哲氏の論文によれば、日本の環濠遺跡には3つの特徴があると云う。
しかし、北部九州は環濠集落も存在する。北部九州での初期の環濠集落は、弥生中期の板付遺跡で、その環濠は幅2m以上、深さ1m以上で断面V字型。その長径は120m、短径は100mとのことである。はっきり言って比較論の話しであるが、泰国の同時代の環濠より小さい。・・・比較論の話しは後に譲るとして、吉野ヶ里をみてみたい。
高度約4000mからの画像である。外堀の延長は2.5kmで面積は40ヘクタールとのことである。環濠内には墳丘墓も存在する。
ここは魏志倭人伝の伊都国に比定されるのが定説のようである。とすれば「東南に陸行すること五百里にして伊都国に至る。-中略ー。万余戸有り。世王有るも女王国に統属す。郡使の往来に常に駐まる所なり。」・・・と魏志倭人伝は記す。
吉野ケ里が伊都国であるとすれば、40ヘクタールの環濠内に、帯方郡使の饗応施設、伊都国王の住居さらには万余戸の住居が収まるはずもない。下戸とかは環濠外に住まいしたか?・・・とすれば、環濠外に住居跡が出土してもよさそうである。
巨大な環濠出現と騒がれたが、冷静にみれば意外と小規模の感は否めない。次は山陰の環濠を概観したい。
<続く>
これは魏志倭人伝が記す、「倭国大乱」と卑弥呼が共立されたこと、更には卑弥呼が亡くなったあと再乱し、台与をたてて王と為し国中遂に定まる・・・とある。時期は景初年代の記述がみえることから弥生後期(3世紀前半)のことで、環濠が消滅する時期に重なる。
総合研究大学院大学の藤原哲氏の論文によれば、弥生時代の環濠集落の祖形は韓国南部地域を源流とするのが妥当であると云う。江蘇・浙江や南国の島伝いが、どうなのか知る由もなく、ここでは朝鮮半島からの南伝説に従っておく。ここで藤原哲氏の論文によれば、日本の環濠遺跡には3つの特徴があると云う。
(出典:論文・弥生社会における環濠集落の成立と展開・藤原哲氏)
一つは、北部九州から瀬戸内西部の環濠遺跡は住居は見られず、貯蔵穴群が検出されるという。二つ目の特徴は、弥生前期から中期の山陰で、環濠遺跡にみるのは貯蔵穴さえなく、空白地を環濠で囲むと云う。三つ目の特徴は、瀬戸内東部から畿内で、その環濠には集落を伴うと云う。・・・これは何を示すのか?しかし、北部九州は環濠集落も存在する。北部九州での初期の環濠集落は、弥生中期の板付遺跡で、その環濠は幅2m以上、深さ1m以上で断面V字型。その長径は120m、短径は100mとのことである。はっきり言って比較論の話しであるが、泰国の同時代の環濠より小さい。・・・比較論の話しは後に譲るとして、吉野ヶ里をみてみたい。
高度約4000mからの画像である。外堀の延長は2.5kmで面積は40ヘクタールとのことである。環濠内には墳丘墓も存在する。
ここは魏志倭人伝の伊都国に比定されるのが定説のようである。とすれば「東南に陸行すること五百里にして伊都国に至る。-中略ー。万余戸有り。世王有るも女王国に統属す。郡使の往来に常に駐まる所なり。」・・・と魏志倭人伝は記す。
吉野ケ里が伊都国であるとすれば、40ヘクタールの環濠内に、帯方郡使の饗応施設、伊都国王の住居さらには万余戸の住居が収まるはずもない。下戸とかは環濠外に住まいしたか?・・・とすれば、環濠外に住居跡が出土してもよさそうである。
巨大な環濠出現と騒がれたが、冷静にみれば意外と小規模の感は否めない。次は山陰の環濠を概観したい。
<続く>