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筒形銅器は、巴形銅器と共に従来倭で製作されたものが、伽耶の地に運ばれたものと云われていたが、その説は最近怪しくなってきた。
倭では西日本を中心に50基ほどの古墳から、金官伽耶でも釜山や金海を中心に25基ほどの古墳から出土する。倭製か、それとも金官伽耶製か? 双方で出土する意味は何か? 制作工房は双方ともに未だ発見されていない。倭と金官伽耶で、筒形銅器の広がりや副葬された古墳の規模、そして副葬品の取り扱われ方を比較すると、二つの違いがある。
一つ目である。金官伽耶では王族や首長たちの古墳群に限定して副葬される。2-3点副葬されるのが一般的で、10点ちかくまとめられて副葬される事例もある。倭では西日本の広い範囲で、大きな前方後円墳から小さな古墳にいたるまで、幅広く副葬されている。それも1点だけ副葬されている。したがって分布の中心は、金官伽耶の王族や首長たちの古墳にありそうだ。
二つ目である。金官伽耶では、武器や儀仗の柄に取り付けて副葬することが大半である。それは本来の使われ方である。しかし倭の場合は、それ以外に容器におさめられたり、布にくるまれたりと宝物のように副葬されることも少なくない。
このようにみると、金官伽耶の筒形銅器は、単に倭からの贈答品だった訳ではなさそうだ。高田貫太氏は双方の出土状況から、筒形銅器は金官伽耶の威信財で、倭へ贈られたものと考えておられる。
上掲2点の焼成火度の低い土師器は、倭でつくられたもので伽耶の地に運ばれたものである。伽耶人が持ち帰ったものか、それとも倭人が運んだか?
129、130は倭製の銅鏃である。以上、2回にわたって『第3章 伽耶人は北へ南へ』とのテーマの展示品紹介を終える。
参考文献
アクセサリーの考古学 高田貫太 吉川弘文館
海の向こうから見た倭國 高田貫太 講談社現代新書
幻の伽耶と古代日本 文芸春秋編 文春文庫
古代倭と伽耶 時空旅人 2022年11月号
<続く>