先に『出雲と古代朝鮮(五)』において、著名な識者を含め多くの人びとが、四隅突出墳丘墓や方墳さらには鳥形木製品は、朝鮮半島の影響を受けた、直接持ち込まれたとの論旨を展開しておられる。よって『出雲と古代朝鮮』を語るに際し、避けられないことと思い記述したが、個人的にはそうは思われず、呉越の地から伝播したものと考えている。
戦後、皇国史観への反発か反省か知らないが、何でもかんでも朝鮮半島から渡来したと主張する学者が多いが、多少頭を冷やされたらどうか。
我が国の墓制は大陸と共通するものが多い。横穴式古墳や支石墓のほかに円墳、方墳など盛り土による高塚のルーツは江南の呉越に在ったと思われる。2005年4月~9月にかけて南京博物院考古研究所は、江蘇州句容市と金壇市で土を盛った、周代の土墩墓(どとんぼ)40基の発掘を行った。
(発掘された土墩墓:出典・人民日報)
副葬品として灰陶や紅陶、印紋硬陶と原始的な青磁が出土した。発掘後の調査分析により舟形棺、石の寝台、墳墓の上に建てられた木造掘立小屋の存在が明らかになった。
我が国では、弥生時代の墳丘墓も古墳も、遺体を地面より高いところに埋葬する。一方墳頂には祭祀が行われた形跡、例えば掘立小屋や柱穴跡が残っている。一方で中国・華北では遺体を地下に埋め、その上に土を盛る。秦の始皇帝陵がその代表例である。それに対し呉越では、地面より高いところに遺体を埋葬し、その埋葬跡は複数個所存在する。それが土墩墓である。吉野ヶ里の弥生墳丘墓は、地面より高いところに埋葬され、複数の埋葬跡が確認されている。これは呉越の土墩墓の影響を受けた可能性を示しており、出雲の四隅もこの影響下にあったと考えられる。
その呉越の地である江蘇省の土墩墓から舟形棺が出土しているが、四川省成都から約2500年前(春秋晩期ー戦国早期)の舟形木棺群が発見された。丸木を舟形に彫って作った棺で、「舟に乗って他界へ行く」意味を持つ。この舟形木棺は、現在の雲南南部から北タイにかけてのアカ族の風習である。我が国でも弥生の墳丘墓や古墳にも舟形木棺が出土している。倭族も彼の地のアカ族も呉越の地から、漢族に追われて移動したことを考えれば納得できる。
墓制について記述したが、中国・華北では、墓室を地下に設けるのが基本で、墳丘はその上を覆うように土盛りされている。4~5世紀の新羅や伽耶の墳墓も埋葬が終わってから墳丘の構築を行った。それに対し呉越や我が国は、埋葬施設が墳丘の上部に位置する。
以上の実態より、墳墓は朝鮮半島経由ではなく、呉越の影響を受けていると感ずる次第である。
日本の泰斗と呼べるような学者諸氏は、稲作の伝来も朝鮮半島南部経由で、例えば松菊里遺跡等を持ち出して言及されている。しかし、冷静に縄文晩期や弥生期に相当する半島の遺跡と出土物を見つめて欲しい。
稲作の木製農耕具(断っておくが青銅製や鉄製農耕具ではなく、縄文後期や弥生早期の木製農耕具のこと)は、半島から出土しておらず、なによりも水田跡が発見されていない。泰斗は考古学的裏付けもないまま、何をもって稲作は半島渡来とされているのか解釈に苦しむ・・・というようなことで、『出雲と古代朝鮮』とのテーマで連載しているが、個人的には一般論・定説はあてにできないものもあることを記しておく。
<外伝・了>
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