どうもシリーズものを間断なくUp Dateするのが苦手のようで、途中で寄り道をしたくなる性格である。『出雲と古代朝鮮』シリーズを中断して物部神社のことどもを2回にわたって記述したい。
Wikipediaによれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年(514年)、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。社家については、景行天皇の時代に物部竹子連が石見国造に任ぜられ、その子孫は川合長田公を名乗り代々祭祀を行っていたというが、文治4年(1184年)金子家忠が安濃郡の地頭として赴いたときに子の道美が取って代わって当社の神主となり、以降金子氏が代々の祭祀を行うようになったという。
物部竹子連が石見国造に任じられたとあるが、杵築(出雲)大社の国造家を牽制する目的であったと思われる。物部神社と云うからには、本貫の地である大和に鎮座していると思いきや石見である。伝承にあるように宇摩志麻遅命が当地で歿したということによるものかと思われる。
それにしても面白いと云うか、何がどうなっているのか? 出雲の神々の多くが大和に鎮座し、大和の神が石見(石見と云っても出雲との国境)に鎮座している。「出雲と大和」は、もっと追及する必要があろう。横道に逸れてしまった。
(本殿)
石見一宮だけあって構えは堂々としている。後方の山は八百山で古代は甘南備であったか?
西五社(荒経霊社・皇祖四代社)
東五社(神代七代社)
淡島神社
柿本神社
菅原神社(天満宮)
勝石(腰掛岩)
宇摩志麻遅命が鶴降山から白鶴に乗って降りられた場所は、当社の東600メートルの地・折居田といい、祭神が腰かけた岩があった。
稲荷神社
後神社
一瓶社
境内に一瓶社がある。祭神が、この地方を平定した時に三つの瓶を三箇所に据えた。一番目がこの一瓶社。二番目は浮布池の爾幣姫神社。
三番目は、三瓶山麓の三瓶大明神。三瓶の古名は佐比売山で、出雲風土記に登場する。
<続く>
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